デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655

 私が論語を服膺して、今日までに其教訓を実地に行ひ来れる所謂、「論語処世談」を実業之世界に掲載するのを読まれて、今の青年子弟諸君が、果して如何なる感を抱かれるかは私の切に知らんと欲する処であるが、論語の教訓は単に之を論じたり、批評したり或は又単に之を難有い貴い教訓なりとして一方の高い処に片付けてしまひ、之を尊敬するのみで過ごすべきものでは無い。然し兎角当今の世の中にかくの如く知と行とを全くの別物に取扱ひ、孔夫子の説かれた所は斯く斯くであるが、世の中の実際は爾う々々聖人の教訓通りに行れるものでは無いなぞと、勝手の挙動に出でらるる人々が多いやうに想はれる。これは私の頗る遺憾に感ずるところである。
 支那にも孔夫子より少しく遅れて、墨翟即ち墨子が出でゝ兼愛の説を唱へ、又楊朱即ち楊子が現はれ、墨子に反対して自愛の説を主張し当時支那北方の学者が主として孔夫子の説を祖述せるに対し、南方の学者には、孔夫子に少しく先だつて現れた楚の李聃、即ち老子の無為説を祖述する者が多かつたのである。然し何れも学説の上でのみ争つたもので、之を実地に行つたといふのでは無い。随つて無為説でも兼愛説でも自愛説でも、議論の上からのみならば如何やうにも之を面白く述べ立て得られるに相違ないが、孔夫子の論語にある教訓は、たゞ議論をする為に組立てられた所謂「説」と申すものとは全く其趣を異にし、士大夫庶人より下は匹夫匹婦に至るまで凡らゆる階級の人をして実地に躬行せしめんが為に説かれたもので、他の空理空論とは其根本の性質に於て異るところがある。故に孔夫子の説は毫も一方に偏すること無く、先づ「仁」を主とせられてあるには違ひないが、「仁」ばかりでは実地に臨んで去就に惑ふ者を生ずる恐れあるべきを予め慮られて「仁義」を兼ね教へられ、「仁」と並んで「義」をも説かれたものである。それでも猶ほ、誤解を生ずる者の出づるのを憂へられたものと見え、「仁義礼智信」の五常を以て人倫の根本なりとし、之を論語の中には併せ説かれて居る。
 這事に就ては、曾て法学博士穂積陳重氏も論ぜられた事のあるやうに記憶するが、墨子の兼愛説の如き、一寸聞いたところでは如何にも面白く感ぜられ、如何にも尤もらしく思はれ、又、そのうちには或る真理をも含んで居るに相違ないが、さて之を提げて実地に臨めば往々にして行き詰りになつてしまはねばならなくなる。仮令ば、今日の国際上にまでも墨子の兼愛説を演繹して行はうとすれば、其結果は果して如何あらうか、思ひ半ばに過ぐるものがある。是に至ると、孔夫子が論語に説かれた仁義礼智信五常の道は之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らぬ、坐しても行ひ、起つても亦行ひ得べき実際の処世に最も適切なる教訓であるといふ事になる。
 孔夫子と殆ど同時代の支那に於てさへ、孔夫子の教訓は単に一種の学説として取扱れたほどのものである。況んや、今日の我が邦に於て之を単に学説の如くに取扱ひ、如何にも結構な教であるといふ丈で、之を実際に施して躬行する者尠く、聖人の教訓は聖人の教訓、実際の処世は実際の処世と、別々に分けて考へる人々の多くなつたのも敢て怪むには足らぬ次第であるが、偶々之を実地処世の上に躬行した人があるかと思へば、それは多く中江藤樹先生とか、或は熊沢蕃山先生とか――蕃山先生は多少治政の事に関係もしたが――の如き所謂道学先生である。実地の社会とは懸け隔れた人々のみが論語に孔夫子の説いて置かれた教訓の実行者になつてゐるのは、如何にも遺憾である。
 近頃の実業界などで少し険しく立ち廻られやうとする方々なんかになると、其の根本の理想が全然私なぞと違つて、依然仁義は仁義で隅の方に押し付けて置き、儲ける事は儲ける事で、全く之を仁義の観念から離してしまひ、勝手に日常の去就進退を決し、聖人の教や論語の教訓を其儘実践躬行したんでは、到底今日の世の中が渡れるものでは無い。金儲けなぞの出来るものでは無い、事業に成功するなぞは思ひも寄らぬ事だと考へて居られる如くに見受けられる。殊に甚しい方々になると、心は仁義を無視した行動に出られやうとしながら、それでは余り世間への体裁上面白くない、余り自利主義の如く見えて彼是と非難を受ける恐れがあるからとて、自分が孔夫子の説かれた仁義に拠らうとする心は露僅かもなくして、却て自分で勝手な真似をする行動の方に仁義を引き寄せ、仁義をして自分の行動を弁護させる道具に使ひ、世間の手前だけを繕はうとせられる。心から真に仁義を行はんとする精神無く、皮層ばかりの仁義で世の中を渡らうと致される方が無いでもない。
 然し聖人の道は斯く実地を離れて片隅に押しつけ置かるべき性質のものではなく、錙朱の利を争ひつゝある間にも人は仁義を実地に行つて往けるものである。否な、仁義を根本にして商工業を営めば敢て争ふが如き事をせずとも、利は自から懐に這入つて来るものである。世の中は総て分業で、学者は学理を研究して新しい学理上の法則を発見し、治者は政治上に新しい意見を立て、国家の繁栄を計るやうになつて居る。恰度そのやうに商工業者は商工業を営んで利を挙げ、孔夫子の論語に説かれてある道に合致してゆけるものである。
 私は論語に孔夫子の説かれた教訓は、是れ悉く実践躬行の為にあるもので、士大夫庶人より匹夫匹婦に至るまで凡らゆる人の行ひ得、又行ふべきものであると信じ、孔夫子の御精神のある処を身に体し、今日まで之を実地に行つて来た積であるが、素より不肖の凡夫で、孔夫子の如き聖人には及びもつかぬところより、私の一言一行が悉く知行合一であるとは申上かねる。殊に壮年以来、身を磊落に持つ慣習のあつた先輩友人と多く交はつて来た為に、他に罪を嫁するわけでは無いが、婦人との間係なぞに就て別して論語にある孔夫子の遺訓そのまゝに行つて参つたとは広言しかね、及ばぬところばかりで慚愧に感ずる次第であるが、明治六年実業界に身を投じて以来、少くとも実業の上に於ては不肖ながら論語の教訓を其まゝに我が身に行つて来たものと断言して憚らぬのである。
 私は今日でも又今日までも、如何な方の御訪問を受けても故障の無い限りは必ず悦んで御面会をする。決して面会を謝絶するやうな事を致さぬ。斯んな事は一些事の如くであるが、折角訪問して来て下されて面会を断られるやうな事があると、誰でも何となく不愉快な面白く無い感じを催すものである。私は自分の行為で他人に斯る不快を御与へ申したく無いと思ふから、誰彼にでも御面会するのである。御面会して御話を聞き、何か御相談でもあれば自分で出来る事なれば出来る出来ぬ事なれば出来ぬ、宜しい事なれば宜しい、宜しく無い事なれば宜しく無いと自分の意見を申上げ、毫も隠くすとか偽るとか、或は又包むとか云ふ事の無いやうにして来たものである。事業に当るに就ても矢張同様で、偽るとか包むとか、体裁を繕ふとかいふ事をせずに、総て孔夫子が論語に説かれてある教訓を実地に行ふ事にのみ心を尽して参つたものである。
 斯く私が論語の遺訓を処世の実際に行ふやうになつたに就ては、稍々余談に亘る恐れはあるが、私が実業界に身を投ずるに至つたまでの径路を、簡略に申述べねばならぬ。私が実業界に身を投ずるに至つた径路は是れ即ち私が前回にも申述べたる如く、論語によつて世に処し論語を尺度にして実業界の事に当らうと決心するに至つた径路であるからである。
 却説、私は前回にも申述べたる如く、自分より十歳年長の従兄で漢学者であつた尾高惇忠に就て漢籍を勉強する間にも、家業の農と藍の商売ともに父に励まされ、勉強して居るうち十七歳になつた頃には家道も追々と繁昌するやうになつたものだから、私の郷里(埼玉県深谷駅より北一里の血洗島村)の御領主安部摂津守より、私の村へ千五百両ばかりの御用金を言ひ付かつたる際、私の父も五百両を調達して差出すことになつたが、その時に私は父の代理として私の村より一里ばかりも隔つた岡部村にある御領主の陣屋に罷出でたところ、陣屋の役人は私に対し、如何にも権柄づくめの御取扱をなさるので、心中甚だ快ならず、これも畢竟幕府の政治が弊竇の極に達したるの致すところと憤慨して居る矢先、世の中の調子が漸次変つて参り、徳川の政治を非難する声が到る処に喧しく、殊に私に取つては漢籍の師である尾高氏の弟に当る長七郎といふ人が早く江戸に出でて天下の大勢を弁へ居つた丈けに、江戸より帰村する度毎に当時の模様を詳しく説いて聞かせられ、更に二十四歳の文久三年に、私が二度目に江戸に出でゝ海保の塾と千葉の道場とに這入つて塾生をするやうになつてからは、かねて読書に依つて学び覚えて居つた国体論が深く私を感動せしめ、私は愈々百姓を廃めて国家の為に尽さうといふ気になつたのである。
 依て私は江戸に四ケ月ばかり留まつたのみで郷里に帰り、漢学の師である尾高惇忠を統領と仰ぎ、同姓の渋沢喜作と私との三人で密議を凝らし、他の力を借らずに一揆を起し、まづ其血祭に或る大名を討ち直に其兵力を利用し一挙して外国人の居留地たる横浜を焼撃したら、外国より問責の師が日本に向けて来るに相違ない。さうなると、幕府が到底支へ切れずに顛覆するに至るは必定だと考へ、近頃云ふ不軌とまではゆかぬが、兎に角一揆を企てたのである。然し、これは尾高氏の弟の長七郎に諫止せられて果さず、それこれするうちに私等に斯る企てのあつた事が其頃幕府の探偵であつた八州取締といふものゝ耳に入り、夫々手が廻つてるのを聞き知つたものだから、尚ほ郷里に安閑として留まつてるのは、身を危険の淵に置くのみで毫も国家に尽す所以でないと心付き、脱走といふでは無いが、郷里を去つて一先づ京都に出で、天下の形勢を観望するに如かずと決し、私と同姓喜作との両人は相携へて京都に赴く事になつたのである。これが確か文久三年の十一月八日であつたやうに記憶する。さて京都に着いて見ると、従来の過激であつた私の思想は茲に一変せねばならぬやうな事情を生じたのである。
 私と同姓喜作との両人が京都に出づるに就ては、途中の詮議も却々厳しくなり、且つ百姓では帯刀が出来ぬといふので、両人は一橋家の用人平岡円四郎の家来であると云ふ先触を出して置いて、東海道を無事に京都まで通過したのである。当時一橋慶喜公は禁裡御守衛総督の役を仰付かつて京都に在らせられ、用人の平岡円四郎も亦京都にあつたのであるが、私と喜作とは江戸の海保の塾と千葉の道場とに出入するうち友人よりの縁故で平岡氏に知られ、一橋家に仕官を勧められた事もあつたので、愈よ私共両人が京都へ出発する事に決まるや、平岡の留守宅を訪ね家来の者に面会し、実際の事情を述べて「京都まで御家来分の積りで先触を出すから許して下されたい」と依頼に及ぶと、平岡よりは既に同氏の留守宅へ私共両人が家来にしてもらひたいと頼んで来たら何時でも許してやれ、との申付が同氏の京都出発前留守居の者にあつたといふので、直に私共の頼みを聴き容れて呉れたが、私にも同姓の喜作にも素より平岡の家来にならうとの気は毛頭無かつたのである。たゞ、京都まで途中を無事に通過する便宜上、平岡氏の家来分たる名目を冒したのみである。
 文久三年も暮れかけたとろ[ところ]で漸く京都に着したので、伊勢大廟に参拝したりなぞするうちに、その年も暮れてしまひ、翌けて元治元年の春を迎ふることになつたが、郷里に於ける漢学の師であつた尾高惇忠の弟長七郎が、私の京都より発した出京を促す書簡を懐中にしたまゝ郷里より江戸に出る途中、或る行違で幕府の役人に嫌疑を蒙り、捕縛されて伝馬町の牢屋に繫がれるやうになつたとの獄中よりの通信を、私は長七郎から受取つたので、私の発した手紙の為に長七郎が或は斯く嫌疑を受けたのでは無からうかと心配し、割腹して長七郎の為に冥途の先駈をしようとまで一時は憤激もしたが、喜作に止められて果さず、或は江戸に下つて長七郎と運命を共にしようか、或は長州に奔つて多賀屋勇に頼らうかなぞと、小田原評定をして一夜を過ごすと、翌日に至り喜作と私とは書面を以て平岡から招かれたのである。
 平岡円四郎と云ふ人は今になつて考へて見ても実に親切な人物であつたと思ふが、私共二人が京都に出て来た理由を問ひ訊されたので、事情の始終を隠し包む処なく物語ると、平岡は両人の一揆を起さうとして果さず出京したことも既に知り居られて、その事は早や幕府の方にも探知せられ、両人が果して平岡の家来なるや否やを、其筋より一橋家に問合せ来つて居る事情までも話して呉れたのである。
 それに就て平岡は、幕府に於ても既に両人が自分の家来で無い事を知つて居る際だから、強ひて家来であると偽つて報告するわけにゆかず、さればとて、平岡の家来で無いと報告してしまへば直に召捕られてしまう恐れがある。其辺甚麽したものだ、との相談で態々と私共が郷里に居つて懐いてたやうな一足飛びの過激な構想では到底事の成るものではない、それより寧ろ此際節を屈して一橋家に仕へ、草履取から始める決心で追々と政治上に実際の権力ある人に自分等の意見を進言し、之を行はしむるやうにした方が賢い道であると説き諭されたのである。喜作と私とは即座に返答しかねて、其場は其儘引き取り、宿に帰つてから徹夜で両人は一橋家に仕へる是非に就ての相談を凝したのである。
 これまで徳川幕府を倒さうとして奔走して来たものが、如何に焦眉の場合なればとて幕府の支流たる一橋家に仕へてその家臣となるのは面白くないとは思つたが、此際躊躇へば其うちには縛せられて犬死をするばかりであると考へ、猶ほ私は従来のやうな急激な理想では到底国家の政治を改革することの出来るものでない事にも想ひ到り、且つは又私共両人が一橋家の家臣になつた事が明かになれば、江戸伝馬町の牢屋に在る長七郎の嫌疑も自然或は晴れるだらうとも考へて、茲に喜作と私との相談が一決し兎に角一橋家に仕へて槍持からでも草履取からでも何でも始めよう、その代り一旦仕へた上は飽くまで君を尭舜にせねば止まぬとの決心を固め、翌日之を平岡に返事し、愈よ両人とも二月二十三日を以て一橋家に召抱へらるゝことになり、茲に従来の私の思想が一変したのである。
 一橋家に召抱へられた時には、奥口番と申して奥の口の番に当る役柄で、四石二人扶持、滞京手当月四両一分づゝの俸禄を受けることになつたのであるが、間もなく一橋家の外交向を取扱ふ役所で禁裡御所に対する接待、堂上公卿との交際、諸藩の引合筋等に対する始末をする御用談所の下役といふものを仰付けられ身分は奥口番より下でも、一橋家の外交事務に参与する事が出来るやうになつたのである。そのうち予ねて私より一橋家に召抱へらるゝに先つて申入れて置いた建言が容れられ、一橋家に於ては一旦有事の日に備ふる為め広く天下の志士を召抱へることになり、私と同姓の喜作とは関東人選御用掛といふものを命ぜられて五月の末か六月の初旬であつたと思ふが、公然関東に下る事になつたのである。当時水戸の藩中に政争があつて志士は多く之に赴いて居つた為に、応募者が極めて少数だつたが、一橋家の御領内にある各村を巡回し廉潔忠誠の農兵三四十人を募集し、之に江戸で採用した剣客八人と漢学生二人とを加へ、京都に帰つたのである。
 私の関東滞在中、平岡円四郎は六月十七日京都の一橋邸附近で水戸藩士の為に暗殺されてしまつたのであるが、平岡の死後、用人として一橋家の政務を掌つた黒川嘉兵衛といふ人が、幸に私と喜作とを重用して呉れたものだから、九月の末には身分が御徒士に進み、食禄八石二人扶持、滞京手当月六両になつたのである。翌けて慶応元年二月には私も小十人といふ身分に進み、十七石五人扶持、滞京手当当月十三両二分となつたが、その頃、一橋家の兵備といふものは極手薄で、幕府より何時なんどき引揚げらるゝやも測り難い幕府より借し与へられた二小隊の御客兵が主である。それでは一橋家が一朝有事の日に禁裡御守衛総督の大任を尽すわけにもゆかぬと私は考へたので、農民募兵の儀を慶喜公に謁見して言上し、遂に建言が容れられて私は歩兵取立御用掛といふものになつたのである。
 かくて私は兵隊組立御用を仰付かつて、一橋家の領地を巡回し居るうち、領内の産米と木綿とが他領のものに比し値段が安くなつてる事や、硝石の産出が比較的領内に多いにも拘らず大規模の製造所が無い為に頗る不利を蒙つてる事に気が付き、種々と建言する処があつたので、私は遂に食禄二十五石七人扶持、滞京手当月二十一両の一橋家御勘定組頭を仰付かり、種々と財政上の案を立て、会計専務を取扱ふ事になつたのである。勘定奉行といふものが、昨今で申せば大蔵大臣の格で、その次に勘定組頭があつたのだから、昨今で申せば一橋家に於ける大蔵次官の格になつたのである。然るに茲に一つ困つたのは、徳川十四代の将軍家茂公が慶応二年八月二日薨去になつたので、慶喜公が一橋家より宗家に入られて、徳川十五代の将軍にならせらるゝといふ事である。之れには私は大反対であつたのである。
 私は、この時とても依然徳川幕府は倒してしまはねばならぬもので又天下の大勢から察しても倒るべきものであると考へてたのであるが若し、これまで君公として仕へ奉つた慶喜公に一度将軍になられてしまひ申すと、情誼の上から私は幕府を倒す為に力を尽すわけには参らぬ事情に陥つてしまふ。のみならず、その当時私は、幕府も早晩倒れるに相違ないが、倒れた跡が今日のやうな御親政にならうとは夢にも思はず――今になつて思ふと誠に畏れ多い次第であるが――当分のところは豪族政治のやうなものになつて、薩長とか其他の有力なる藩が寄り合つて天下の政治を行ふことになるものと信じたのである。斯う考へて徳川一門を見渡すと、尾州公でも水戸公でも豪族政治の仲間入が出来さうな人傑では無い、たゞ一橋慶喜公だけは人傑であらせられるから、公を推し立てゝ行きさへすれば豪族政治の仲に割り込んで、我が志も行へるといふものだが、慶喜公が一旦将軍に御成りになつてしまへば、幕府が倒れた時に如何とも天下の政治に志の叙べようが無くなつてしまふ。そこで私は飽くまで慶喜公を一橋家に引き留めて置いて、将軍職には御就かせ申すまいとしたのである。然し、これは後年に至り御面会を致した際に始めて承つて知つた事であるが、慶喜公には此時既に大勢の赴く所を御察知あらせられ、当時私共の想ひ及ばなかつた御深慮を御持ちになり、大政を奉還して御親政の道を開きたいとの御志望から愈よ将軍職に御就きになることになつたのである。
 私は此際ほど困つたことはない。これまで倒さう〳〵と心懸けて来た幕府であるから、仮令、是まで仕へて来た君――君といふのは少し穏かでないかも知らぬが――が将軍になられたからとて、オメ〳〵幕府に仕へて幕吏となるわけにもゆかず、さればとて今更浪人して見たところで仕方が無いのみならず甚だ危険である。いつそ割腹して相果てようかとまでに一時は思ひ詰めもしたが、それでは犬死になるからと暫く苦痛を忍んで幕府の陸軍奉行支配調役といふものに仕官したのである。そのうち、仏蘭西留学を仰付かる事になつたが、此時ほど又私の嬉しく感じたことは無い。これで進退維に谷まる憂も先づ無くなつたと思ふと、実に嬉しかつたのである。慶応三年の正月三日に京都を出発し、仏蘭西郵便船のアルヘー号で横浜を出帆したのが、正月の十一日である。
 私の仏蘭西に参つてから後の慶応三年十月十四日、将軍の慶喜公は愈よ大政を奉還せられて御親政といふ事になつたのであるが、速に帰朝せよとの命があつたので、漸く仏蘭西語は文法書の一つも読めるか読めぬぐらゐに過ぎなかつたに拘らず、遺憾ながら止むなく帰朝することになり、明治元年の九月仏蘭西を出発して日本へ着いたのが十一月三日である。着いて見ると国内の形勢は洋行前と全く一変して居り同姓の渋沢喜作は榎本武揚と共に函館の五稜廓に立籠り、尾高長七郎は元年の夏に伝馬町の牢屋から出獄はしたが既に歿して居る。朝廷に立つて時めいてる人々のうちには知已旧識といふものが全然ない。多年恩顧を蒙つた慶喜公は駿河で御謹慎中の御身分であると知つては、新政府の役人になるのも甚だ心苦しいので、当時駿府と申した静岡に退隠し、一生を送ることにしようと私は考へたのである。
 仏蘭西に留学中多少見聞したところもあるので、敢て整然たる八釜しい理論の上から考へたのでは無かつたが、商工業を盛んにして国を富まし兵を強くするには、之に当るものに報酬を多く与へるやうにせねばならぬ。然るに、小さな資本で商工業を営んだのでは、多くの報酬を引き出す道がない。依て小資本を集めて大資本とし、合本組織の会社法で商工業を営まねばならぬものであると思ひつくに至つた事は前回にも既に申述べた如くである。静岡に参つてから此の意見を藩の当路者等に話して聞かせると、幸にそれが容られて、当時新政府で発行した紙幣を広く全国に通用さする目的で、各藩に貸付けられた金額のうち恰度五十三万両だけが静岡藩にあるから、それと民間よりの資本を寄せ集めて私に一つ会社を経営させて見たら如何か、との相談になつたのである。明治二年の春、私は愈々それを引受けて今日でも其跡が湖月といふ料理屋になつて猶残つてる静岡の紺屋町に事務所を置き、「商法会所」といふものを起して商品抵当の貸付をしたり、鯟粕乾鰯等の肥料類を買入れて農民に売つたり、又、米の売買等を取扱つて居つたのであるが、明治二年の十一月二十一日に太政官から急に私へ御召状があつたのである。
 私には素より新政府に仕官をしようとの意が更に無かつたものだから、如何かして御断りをしたいものと思ひ、藩庁より御免を蒙つて出京を辞するように取計つてもらひたいと、藩の大久保一翁まで願つて見たが取りあげられない、又慶喜公なども傍から御口添で懇々私を諭され、この際そんな事をしては、静岡藩が有為の人材を惜んで朝旨に悖つたことにせられるからといふ仰せなので、私も止むなく出京はしたが、その時には当路の方に面会して御免を蒙つて帰藩する積であつたのである。
 十二月初旬東京に着いて、一ト晩如何にして任官を勧められた時に断らうかと充分に熟慮してから、其頃大蔵大輔であつた今の大隈伯に遇つて見ると、一地方に引つ込んで居つては兎ても志の行はれるものでは無い、志を行はんとするには全国に勢力の行き渡る中央政府に這入る方が可いと、色々に説き聞かせられたのである。その時大隈伯は八百万の神達が天の安の河原に神つどひにつどひ、神はかりにはかるやうにしてこれからの新政を行つてゆくのだと盛んに論談せられて、従来幕人に対しては何れかと云へば私の方から意見を話して聞かせることになつて居つたところを、大隈伯からは私の方が反対に諄々と話して聞かされるわけになり、大隈伯の八百万の神達論で吹き飛ばされてしまつたものだから、私も近頃の言葉にいふ一寸面喰つた形で、遂に断りきれず、大蔵省租税正といふ職を仰付けられる事になつたのである。
 愈よ任官の御受を致して、二三日大蔵省に出仕して見ると、省内は徒にガヤ〳〵騒々しくして居るばかりで事務が些つとも捗つて居らぬ模様である事が知れたのである。これでは折角の八百万の神達も神はかりにはかるわけには参るまいから、官の組織を整然と設くる必要があらうと大隈伯まで申入れる事に致すと、大隈伯も恰度其心があつたので改正掛といふものが大蔵省の中に置かれることになり、私も其一員となつて職制が従来、卿、輔、丞、佑などに別けてあつたのを更に細かく分けて改正する事や、度量衡、駅伝法、幣制、鉄道等の事までも、この大蔵省の改正掛に於て評議するに至つたのである。
 それこれするうちに明治四年となり、大蔵大輔であつた大隈伯は参議に転じ、井上侯が其後を襲うて大蔵大輔になられ、明治五年には私も大蔵少輔になつたのであるが、明治六年五月二十三日種々の事情から官を辞して民間に下り、孔夫子の論語に説かれてある教訓によつて実業の振興を計らうとする決心を固め、以来官に就き治者の位置に立つ念を全く絶つたのである。然し大隈伯、井上侯及び故伊藤侯の三人は右の如き関係より其後も私の親しくした先輩である。
 後年になつてからも私は大蔵大臣になれとか何んとか、屡々官に就くのを勧められたものである。殊に明治三十四年井上侯が内閣組織せられる際には是非大蔵大臣になるようにと、勧告せられたのであるがこの時も断じて御免を願つたのである。それでも却々聴かれさうに無かつたので、そんなら止むを得ん次第故、一応銀行と相談の上、銀行が若し私の大蔵大臣になるのを承諾ならば、忍んでも成りませうと申上げ、銀行から御断りをするやうにしてもらつたほどで、論語にある孔夫子の教訓によつて実業を経営し、実業界に身を終らうといふのが明治六年以来今日まで一貫して変らぬ私の志である。
 私の「論語処世談」は、甚だ余談に亘つたが、これから、猶ほ論語「学而」篇の章句に就て処世の実際上に感じたことを些か申述べることにする。
有子曰。其為人也。孝弟。而好犯上者鮮矣。不好犯上。而好作乱者未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其為仁之本与。【学而第一】
(有子曰く、其人となり孝弟にして上を犯すことを好む者は鮮し、上を犯すことを好まずして乱を興す者は、未だ之れあらざる也。君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なるものは夫れ仁を為すの本か。)
 有子は孔夫子十哲の一人では無いが、論語の序文にも論語は有子と曾子との門人の手によつて編まれたとの故、孔子の御弟子のうちでも有若と曾参とには特に「子」の敬称を附し「有子」「曾子」と論語の中に書かれてある、と記せられてるほどで、有子の言には敬重すべきものが多く、私は頗る之を悦ぶものである。却説人間は如何に智恵があつても、人情に淳樸な所が無いと兎角悪い事を為るやうになり勝のものである。故に私は他人を頼んで使ふにしても、智恵があるよりも人情に淳樸で、我が家族に対し孝弟の道を尽す、親切な心のある者を力めて採ることにして居る。孝弟の道を弁へ親兄弟に親切な人でも中には悪い事をする者が絶無であるとは云へぬが、さういふ人は鮮いものである。素より上を犯す如き事は甚だ稀である。上を犯すを好まざる者は乱をなすといふ如き事は「未だ之れ有らざる也」で、絶対に無い。随つて人情に淳樸な孝弟の道を弁へた人々を集めて事業を経営すれば、ごた〳〵なぞの起る心配はまづ以て稀れであると云へる。
曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎。【学而第一】
(曾子曰く、吾日に三たび吾が身を省る。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。伝へて習はざるか。)
曾子は孔夫子の御弟子中でも私の甚だ気に入つて居る人物であるが私は曾子の茲に説かれてある如く一日に三度我が身を省るといふほどまでには参らなくても、人の為に忠実に謀つてやらねばならず、友人に対しては信義を尽くさねばならず、又私が孔夫子より教へられた道を閑却せず、常に修めて行かねばならぬものであるといふ事を忘れずに心懸けて居る。
 人の為に忠実に謀り、友人に信義を尽くし、聖人の道を修めるに汲汲としてさへ居れば、人は怨みに遠ざかる事ができ決して他より怨まるるものでは無い。私が御訪問を受けさへすれば、誰彼にでも御面会し、隠し包むところなく意見を申述べるのも、この章句を些か身に体して行ひたいからの事である。「伝へて習はざるか」との句を、「他人に聖人の教を伝へて置きながら、自分では之を修めぬやうなことが無いか」との意味に解釈する人もあるが、矢張「他より教られて居りながら、たゞ聞いたのみで、之が実行を怠つてるやうな事は無からうか」といふ意味に解釈するが宜しからうと思はれる。
有子曰。礼之用。和為貴。先王之道斯為美。小大由之。有所不行。知和而和。不以礼節之。亦不可行也。【学而第一】
(有子曰く、礼の用は和を以て貴しとなす。先王の道斯れを美となし、小大之による。行はれざる所あり。和を知つて和するも、礼を以て之れを節せざれば亦行ふべからざる也。)
 茲に有子が曰はるゝ「礼」とは、普通の言葉に於ける「礼」と其意味を異にし、頗る広い意義の礼を指したもので、そのうちには礼記にある礼を総て含んでるものと見るべきである。随つて、この句にある「礼」の一字中には周の刑制のことも亦含蓄せられてあるのだが、礼の精神が和にあるのを忘れては礼が礼にならず、却て之がお互に疎隔する原因になつてしまふものである。刑の根本なぞに於ても、和を以て精神とし、之を執り行ふことにせねばならぬものである。然し又、和が余りに過ぎると互に狎れて却て不和となり、世の中の秩序を紊すことにもなるから、そこは礼を以て之を節して参らねばならぬもので中庸を得たるところに真の和が在るのである。
有子曰。信近於義。言可復也。恭近於礼。遠恥辱也。【学而第一】
(有子曰く、信義に近ければ言復むべし。恭、礼に近ければ恥辱に、遠ざかる。)
 如何に信は重んずべきものであるからとて、不道理な約束を仕て置いて之を履行するといふのは宜しくない事である。道理に適つた正しい約束であればこそ、茲に始めて人間は之を飽くまで履行せねばならぬといふ信を生じて来るものである。然らずして義に近づかざる事でも何でも信を立てゝ約束を守らねばならぬものだといふことになれば泥坊をする約束でも何でも履行せねばならぬといふわけになる。過日も興信所員の訪問を受けたから、能く此の事を御話して、正しい約束を重んずる信の念を盛んにするやうにせねばならぬものである、と申述べた次第である。
 また、恭虔も結構な事ではあるが、礼を以て節せずに其度を失するやうになれば卑屈となつて、恥辱を受け、その上、姦であるとの譏をさへ受けねばならぬやうになる。処世の実際に臨んで是等の点は何れも深く注意すべきものであるから、有子は此の章句にある如く説かれたのである。
 如上、申述べたる処によつて、一ト先づ「学而」篇を終り、次回よりは猶ほ論語にある処世上に必要なる教訓の章句に就いて、実験上より多少意見を御話して見る積である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)