1. 青年子弟の感果して如何
せいねんしていのかんはたしていかん
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支那にも孔夫子より少しく遅れて、墨翟即ち墨子が出でゝ兼愛の説を唱へ、又楊朱即ち楊子が現はれ、墨子に反対して自愛の説を主張し当時支那北方の学者が主として孔夫子の説を祖述せるに対し、南方の学者には、孔夫子に少しく先だつて現れた楚の李聃、即ち老子の無為説を祖述する者が多かつたのである。然し何れも学説の上でのみ争つたもので、之を実地に行つたといふのでは無い。随つて無為説でも兼愛説でも自愛説でも、議論の上からのみならば如何やうにも之を面白く述べ立て得られるに相違ないが、孔夫子の論語にある教訓は、たゞ議論をする為に組立てられた所謂「説」と申すものとは全く其趣を異にし、士大夫庶人より下は匹夫匹婦に至るまで凡らゆる階級の人をして実地に躬行せしめんが為に説かれたもので、他の空理空論とは其根本の性質に於て異るところがある。故に孔夫子の説は毫も一方に偏すること無く、先づ「仁」を主とせられてあるには違ひないが、「仁」ばかりでは実地に臨んで去就に惑ふ者を生ずる恐れあるべきを予め慮られて「仁義」を兼ね教へられ、「仁」と並んで「義」をも説かれたものである。それでも猶ほ、誤解を生ずる者の出づるのを憂へられたものと見え、「仁義礼智信」の五常を以て人倫の根本なりとし、之を論語の中には併せ説かれて居る。
- デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)