デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一

3. 論語の教訓躬行の径路

ろんごのきょうくんきゅうこうのけいろ

(2)-3

 私は論語に孔夫子の説かれた教訓は、是れ悉く実践躬行の為にあるもので、士大夫庶人より匹夫匹婦に至るまで凡らゆる人の行ひ得、又行ふべきものであると信じ、孔夫子の御精神のある処を身に体し、今日まで之を実地に行つて来た積であるが、素より不肖の凡夫で、孔夫子の如き聖人には及びもつかぬところより、私の一言一行が悉く知行合一であるとは申上かねる。殊に壮年以来、身を磊落に持つ慣習のあつた先輩友人と多く交はつて来た為に、他に罪を嫁するわけでは無いが、婦人との間係なぞに就て別して論語にある孔夫子の遺訓そのまゝに行つて参つたとは広言しかね、及ばぬところばかりで慚愧に感ずる次第であるが、明治六年実業界に身を投じて以来、少くとも実業の上に於ては不肖ながら論語の教訓を其まゝに我が身に行つて来たものと断言して憚らぬのである。
 私は今日でも又今日までも、如何な方の御訪問を受けても故障の無い限りは必ず悦んで御面会をする。決して面会を謝絶するやうな事を致さぬ。斯んな事は一些事の如くであるが、折角訪問して来て下されて面会を断られるやうな事があると、誰でも何となく不愉快な面白く無い感じを催すものである。私は自分の行為で他人に斯る不快を御与へ申したく無いと思ふから、誰彼にでも御面会するのである。御面会して御話を聞き、何か御相談でもあれば自分で出来る事なれば出来る出来ぬ事なれば出来ぬ、宜しい事なれば宜しい、宜しく無い事なれば宜しく無いと自分の意見を申上げ、毫も隠くすとか偽るとか、或は又包むとか云ふ事の無いやうにして来たものである。事業に当るに就ても矢張同様で、偽るとか包むとか、体裁を繕ふとかいふ事をせずに、総て孔夫子が論語に説かれてある教訓を実地に行ふ事にのみ心を尽して参つたものである。
 斯く私が論語の遺訓を処世の実際に行ふやうになつたに就ては、稍々余談に亘る恐れはあるが、私が実業界に身を投ずるに至つたまでの径路を、簡略に申述べねばならぬ。私が実業界に身を投ずるに至つた径路は是れ即ち私が前回にも申述べたる如く、論語によつて世に処し論語を尺度にして実業界の事に当らうと決心するに至つた径路であるからである。

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キーワード
論語, 教訓, 躬行, 径路
デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)