デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一

10. 大隈伯の八百万の神論

おおくまはくのやおよろずのかみろん

(2)-10

 十二月初旬東京に着いて、一ト晩如何にして任官を勧められた時に断らうかと充分に熟慮してから、其頃大蔵大輔であつた今の大隈伯に遇つて見ると、一地方に引つ込んで居つては兎ても志の行はれるものでは無い、志を行はんとするには全国に勢力の行き渡る中央政府に這入る方が可いと、色々に説き聞かせられたのである。その時大隈伯は八百万の神達が天の安の河原に神つどひにつどひ、神はかりにはかるやうにしてこれからの新政を行つてゆくのだと盛んに論談せられて、従来幕人に対しては何れかと云へば私の方から意見を話して聞かせることになつて居つたところを、大隈伯からは私の方が反対に諄々と話して聞かされるわけになり、大隈伯の八百万の神達論で吹き飛ばされてしまつたものだから、私も近頃の言葉にいふ一寸面喰つた形で、遂に断りきれず、大蔵省租税正といふ職を仰付けられる事になつたのである。
 愈よ任官の御受を致して、二三日大蔵省に出仕して見ると、省内は徒にガヤ〳〵騒々しくして居るばかりで事務が些つとも捗つて居らぬ模様である事が知れたのである。これでは折角の八百万の神達も神はかりにはかるわけには参るまいから、官の組織を整然と設くる必要があらうと大隈伯まで申入れる事に致すと、大隈伯も恰度其心があつたので改正掛といふものが大蔵省の中に置かれることになり、私も其一員となつて職制が従来、卿、輔、丞、佑などに別けてあつたのを更に細かく分けて改正する事や、度量衡、駅伝法、幣制、鉄道等の事までも、この大蔵省の改正掛に於て評議するに至つたのである。
 それこれするうちに明治四年となり、大蔵大輔であつた大隈伯は参議に転じ、井上侯が其後を襲うて大蔵大輔になられ、明治五年には私も大蔵少輔になつたのであるが、明治六年五月二十三日種々の事情から官を辞して民間に下り、孔夫子の論語に説かれてある教訓によつて実業の振興を計らうとする決心を固め、以来官に就き治者の位置に立つ念を全く絶つたのである。然し大隈伯、井上侯及び故伊藤侯の三人は右の如き関係より其後も私の親しくした先輩である。
 後年になつてからも私は大蔵大臣になれとか何んとか、屡々官に就くのを勧められたものである。殊に明治三十四年井上侯が内閣組織せられる際には是非大蔵大臣になるようにと、勧告せられたのであるがこの時も断じて御免を願つたのである。それでも却々聴かれさうに無かつたので、そんなら止むを得ん次第故、一応銀行と相談の上、銀行が若し私の大蔵大臣になるのを承諾ならば、忍んでも成りませうと申上げ、銀行から御断りをするやうにしてもらつたほどで、論語にある孔夫子の教訓によつて実業を経営し、実業界に身を終らうといふのが明治六年以来今日まで一貫して変らぬ私の志である。

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大隈重信, 八百万, ,
デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)