デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一

9. 静岡に商法会所を起す

しずおかにしょうほうかいしょをおこす

(2)-9

 私の仏蘭西に参つてから後の慶応三年十月十四日、将軍の慶喜公は愈よ大政を奉還せられて御親政といふ事になつたのであるが、速に帰朝せよとの命があつたので、漸く仏蘭西語は文法書の一つも読めるか読めぬぐらゐに過ぎなかつたに拘らず、遺憾ながら止むなく帰朝することになり、明治元年の九月仏蘭西を出発して日本へ着いたのが十一月三日である。着いて見ると国内の形勢は洋行前と全く一変して居り同姓の渋沢喜作は榎本武揚と共に函館の五稜廓に立籠り、尾高長七郎は元年の夏に伝馬町の牢屋から出獄はしたが既に歿して居る。朝廷に立つて時めいてる人々のうちには知已旧識といふものが全然ない。多年恩顧を蒙つた慶喜公は駿河で御謹慎中の御身分であると知つては、新政府の役人になるのも甚だ心苦しいので、当時駿府と申した静岡に退隠し、一生を送ることにしようと私は考へたのである。
 仏蘭西に留学中多少見聞したところもあるので、敢て整然たる八釜しい理論の上から考へたのでは無かつたが、商工業を盛んにして国を富まし兵を強くするには、之に当るものに報酬を多く与へるやうにせねばならぬ。然るに、小さな資本で商工業を営んだのでは、多くの報酬を引き出す道がない。依て小資本を集めて大資本とし、合本組織の会社法で商工業を営まねばならぬものであると思ひつくに至つた事は前回にも既に申述べた如くである。静岡に参つてから此の意見を藩の当路者等に話して聞かせると、幸にそれが容られて、当時新政府で発行した紙幣を広く全国に通用さする目的で、各藩に貸付けられた金額のうち恰度五十三万両だけが静岡藩にあるから、それと民間よりの資本を寄せ集めて私に一つ会社を経営させて見たら如何か、との相談になつたのである。明治二年の春、私は愈々それを引受けて今日でも其跡が湖月といふ料理屋になつて猶残つてる静岡の紺屋町に事務所を置き、「商法会所」といふものを起して商品抵当の貸付をしたり、鯟粕乾鰯等の肥料類を買入れて農民に売つたり、又、米の売買等を取扱つて居つたのであるが、明治二年の十一月二十一日に太政官から急に私へ御召状があつたのである。
 私には素より新政府に仕官をしようとの意が更に無かつたものだから、如何かして御断りをしたいものと思ひ、藩庁より御免を蒙つて出京を辞するように取計つてもらひたいと、藩の大久保一翁まで願つて見たが取りあげられない、又慶喜公なども傍から御口添で懇々私を諭され、この際そんな事をしては、静岡藩が有為の人材を惜んで朝旨に悖つたことにせられるからといふ仰せなので、私も止むなく出京はしたが、その時には当路の方に面会して御免を蒙つて帰藩する積であつたのである。

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静岡, 商法会所
デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)