デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一

5. 平岡円四郎に招かる

ひらおかえんしろうにまねかる

(2)-5

 私と同姓喜作との両人が京都に出づるに就ては、途中の詮議も却々厳しくなり、且つ百姓では帯刀が出来ぬといふので、両人は一橋家の用人平岡円四郎の家来であると云ふ先触を出して置いて、東海道を無事に京都まで通過したのである。当時一橋慶喜公は禁裡御守衛総督の役を仰付かつて京都に在らせられ、用人の平岡円四郎も亦京都にあつたのであるが、私と喜作とは江戸の海保の塾と千葉の道場とに出入するうち友人よりの縁故で平岡氏に知られ、一橋家に仕官を勧められた事もあつたので、愈よ私共両人が京都へ出発する事に決まるや、平岡の留守宅を訪ね家来の者に面会し、実際の事情を述べて「京都まで御家来分の積りで先触を出すから許して下されたい」と依頼に及ぶと、平岡よりは既に同氏の留守宅へ私共両人が家来にしてもらひたいと頼んで来たら何時でも許してやれ、との申付が同氏の京都出発前留守居の者にあつたといふので、直に私共の頼みを聴き容れて呉れたが、私にも同姓の喜作にも素より平岡の家来にならうとの気は毛頭無かつたのである。たゞ、京都まで途中を無事に通過する便宜上、平岡氏の家来分たる名目を冒したのみである。
 文久三年も暮れかけたとろ[ところ]で漸く京都に着したので、伊勢大廟に参拝したりなぞするうちに、その年も暮れてしまひ、翌けて元治元年の春を迎ふることになつたが、郷里に於ける漢学の師であつた尾高惇忠の弟長七郎が、私の京都より発した出京を促す書簡を懐中にしたまゝ郷里より江戸に出る途中、或る行違で幕府の役人に嫌疑を蒙り、捕縛されて伝馬町の牢屋に繫がれるやうになつたとの獄中よりの通信を、私は長七郎から受取つたので、私の発した手紙の為に長七郎が或は斯く嫌疑を受けたのでは無からうかと心配し、割腹して長七郎の為に冥途の先駈をしようとまで一時は憤激もしたが、喜作に止められて果さず、或は江戸に下つて長七郎と運命を共にしようか、或は長州に奔つて多賀屋勇に頼らうかなぞと、小田原評定をして一夜を過ごすと、翌日に至り喜作と私とは書面を以て平岡から招かれたのである。
 平岡円四郎と云ふ人は今になつて考へて見ても実に親切な人物であつたと思ふが、私共二人が京都に出て来た理由を問ひ訊されたので、事情の始終を隠し包む処なく物語ると、平岡は両人の一揆を起さうとして果さず出京したことも既に知り居られて、その事は早や幕府の方にも探知せられ、両人が果して平岡の家来なるや否やを、其筋より一橋家に問合せ来つて居る事情までも話して呉れたのである。

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平岡円四郎, 招く
デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)