デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一

4. 京都に出でゝ思想一変す

きょうとにいでてしそういっぺんす

(2)-4

 却説、私は前回にも申述べたる如く、自分より十歳年長の従兄で漢学者であつた尾高惇忠に就て漢籍を勉強する間にも、家業の農と藍の商売ともに父に励まされ、勉強して居るうち十七歳になつた頃には家道も追々と繁昌するやうになつたものだから、私の郷里(埼玉県深谷駅より北一里の血洗島村)の御領主安部摂津守より、私の村へ千五百両ばかりの御用金を言ひ付かつたる際、私の父も五百両を調達して差出すことになつたが、その時に私は父の代理として私の村より一里ばかりも隔つた岡部村にある御領主の陣屋に罷出でたところ、陣屋の役人は私に対し、如何にも権柄づくめの御取扱をなさるので、心中甚だ快ならず、これも畢竟幕府の政治が弊竇の極に達したるの致すところと憤慨して居る矢先、世の中の調子が漸次変つて参り、徳川の政治を非難する声が到る処に喧しく、殊に私に取つては漢籍の師である尾高氏の弟に当る長七郎といふ人が早く江戸に出でて天下の大勢を弁へ居つた丈けに、江戸より帰村する度毎に当時の模様を詳しく説いて聞かせられ、更に二十四歳の文久三年に、私が二度目に江戸に出でゝ海保の塾と千葉の道場とに這入つて塾生をするやうになつてからは、かねて読書に依つて学び覚えて居つた国体論が深く私を感動せしめ、私は愈々百姓を廃めて国家の為に尽さうといふ気になつたのである。
 依て私は江戸に四ケ月ばかり留まつたのみで郷里に帰り、漢学の師である尾高惇忠を統領と仰ぎ、同姓の渋沢喜作と私との三人で密議を凝らし、他の力を借らずに一揆を起し、まづ其血祭に或る大名を討ち直に其兵力を利用し一挙して外国人の居留地たる横浜を焼撃したら、外国より問責の師が日本に向けて来るに相違ない。さうなると、幕府が到底支へ切れずに顛覆するに至るは必定だと考へ、近頃云ふ不軌とまではゆかぬが、兎に角一揆を企てたのである。然し、これは尾高氏の弟の長七郎に諫止せられて果さず、それこれするうちに私等に斯る企てのあつた事が其頃幕府の探偵であつた八州取締といふものゝ耳に入り、夫々手が廻つてるのを聞き知つたものだから、尚ほ郷里に安閑として留まつてるのは、身を危険の淵に置くのみで毫も国家に尽す所以でないと心付き、脱走といふでは無いが、郷里を去つて一先づ京都に出で、天下の形勢を観望するに如かずと決し、私と同姓喜作との両人は相携へて京都に赴く事になつたのである。これが確か文久三年の十一月八日であつたやうに記憶する。さて京都に着いて見ると、従来の過激であつた私の思想は茲に一変せねばならぬやうな事情を生じたのである。

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キーワード
京都, 思想, 一変
デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)