7. 慶喜公の将軍職に反対す
けいきこうのしょうぐんしょくにはんたいす
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私の関東滞在中、平岡円四郎は六月十七日京都の一橋邸附近で水戸藩士の為に暗殺されてしまつたのであるが、平岡の死後、用人として一橋家の政務を掌つた黒川嘉兵衛といふ人が、幸に私と喜作とを重用して呉れたものだから、九月の末には身分が御徒士に進み、食禄八石二人扶持、滞京手当月六両になつたのである。翌けて慶応元年二月には私も小十人といふ身分に進み、十七石五人扶持、滞京手当当月十三両二分となつたが、その頃、一橋家の兵備といふものは極手薄で、幕府より何時なんどき引揚げらるゝやも測り難い幕府より借し与へられた二小隊の御客兵が主である。それでは一橋家が一朝有事の日に禁裡御守衛総督の大任を尽すわけにもゆかぬと私は考へたので、農民募兵の儀を慶喜公に謁見して言上し、遂に建言が容れられて私は歩兵取立御用掛といふものになつたのである。
かくて私は兵隊組立御用を仰付かつて、一橋家の領地を巡回し居るうち、領内の産米と木綿とが他領のものに比し値段が安くなつてる事や、硝石の産出が比較的領内に多いにも拘らず大規模の製造所が無い為に頗る不利を蒙つてる事に気が付き、種々と建言する処があつたので、私は遂に食禄二十五石七人扶持、滞京手当月二十一両の一橋家御勘定組頭を仰付かり、種々と財政上の案を立て、会計専務を取扱ふ事になつたのである。勘定奉行といふものが、昨今で申せば大蔵大臣の格で、その次に勘定組頭があつたのだから、昨今で申せば一橋家に於ける大蔵次官の格になつたのである。然るに茲に一つ困つたのは、徳川十四代の将軍家茂公が慶応二年八月二日薨去になつたので、慶喜公が一橋家より宗家に入られて、徳川十五代の将軍にならせらるゝといふ事である。之れには私は大反対であつたのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(2) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.645-655
底本の記事タイトル:一八九 竜門雑誌 第三二六号 大正四年七月 : 実験論語処世談(二) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第326号(竜門社, 1915.07)
初出誌:『実業之世界』第12巻第12号(実業之世界社, 1915.06.15)