デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.235-239

 維新以来私が交際して来た諸名士のうちには、義を聞いても徙る能はず、不善と知つても改むる能はざる人もあつたが、また義を聞けば直ぐ徙り、不善と知れば直に改むる性質の人も決して尠く無かつたのである。就中、明治十九年八月大審院長で歿した玉乃世履の如きは、義を聞けば直ぐ徙り、不善と知れば直に改むるに躊躇しなかつた人であるかの如く思はれる。玉乃世履は素と玉乃東平と称し、私よりも十歳ばかりの年長者で、私が初めて明治政府へ仕官した頃には私よりも官等が上であつたのだが、私は意外に大蔵省で重用されたので、私が退官する頃には却て私の方が玉乃氏よりも官等が進んで居つたのである。玉乃氏は至つて謹直な人で、大審院長で歿せられたが、洋学を知らず、又初めから法律を学んだ人でも無かつた。素と武官出身で漢学を修めた人だ。然し頭脳は頗る明晣で、法理を解するに敏であつたから、名判官の誉れを得たのである。周防の岩国に生れ、京都に上つて斎藤拙堂などに就き漢学を学び、頼三樹、僧月照なぞとも交り、吉田松陰にも会し、幕府が毛利家を討たうとした時には農兵を率いて一方の守備に当つたものだ。明治二年七月に民部省聴訟司知事聴訟権正に任ぜられたのが、玉乃氏が法官生活に入る抑〻の手はじめである。
 維新後、空相場――近頃でいふ延取引の事で、当時まだ株式の売買は無かつたから米に就てだが――実際米を買はうといふのでも無いのに買ふ契約をしたり、又売る米を持つて居りもせぬ癖に売る契約を結んだりする空米相場を、政府が果して公許したものだらうか或は禁止すべきものだらうかと、当時随分議論があつたのである。玉乃氏は全然之を禁止してしまはねば、国民の賭博性を助長する恐れがあるからとて盛んに其の禁止を主張されたものだ。私は玉乃氏とは反対の意見で人には現物の取引をする外に、なほ景気を売買したがる性分があるもの故、景気を売買する空相場までも如何に賭博に類似するからとて禁止してしまつては、却て人心に悪影響を及ぼし、法網を潜つて盛んに賭博を行ふに至るが如き危険を醸す恐れある故、今日でいふ延取引即ち空相場は之を禁止せず、公許する方が治政の良方便であるとの論を主張したのだ。この意見の杆格から、私と玉乃氏とは至つて熟懇の間柄なるにも拘らず絶えず空相場の許否に関する議論を戦はし、両々相持して降らなかつたのである。
 官を辞して第一国立銀行を設立してからのことで、確か明治七年頃であつたやうに記憶するが、その頃私は未だ今日の如く事務所といふものを持たぬ為、第一銀行の裏に当る三井家の敷地内に一軒の家を構へ、之を事務所とも邸宅ともして住つてた時である――永く遇はなかつた玉乃氏がヒヨツコリ突然私を訪ねて来られた。何の用で来られたものかと訊くと、「実は今日、貴公へ自分の不明を陳謝する為態〻出かけて来たのだ」と申されたのである。玉乃氏が私の許へ態〻謝りに来らるるとは何事だか知らんが、其れは兎に角面白い次第だから委細承らうと私が申せば、玉乃氏は空相場の許否に関する渋沢の意見が正しい事を今になつて覚り、禁止せずに許可する方が良いといふ意見に自分(玉乃氏)もなつたから、是れまで自分が渋沢の意見に反対した不明を陳謝するといふにあつたのだ。
 依つて私は、玉乃氏が如何して従来の意見を一変するまでになられたかに就ての径路を問ひ訊すと、その頃新たに仏蘭西より法律顧問に招聘せられ、我が政府の御雇となり来朝したボアソナードに説破された為であつたのだ。ボアソナードが玉乃氏に説いて聞かせた処は――放火、殺人、窃盗等は不法行為であるから契約物件となり得らるるもので無い。それから、空気の売買契約の如き事も、空気は普遍的のもので、誰でも任意に之を領有し得らるるから契約物件として取扱ひ得らるるもので無い。然し、延取引即ち空相場は、如何に現在持つて居らぬ否な現在に於ては之を買ひ集めて売る資力の無い者がした売米の契約でも、将又引取るだけの資力に乏しい者がした買米の契約でも、何時なんどき其の契約者が其の契約を実行し得らるる実力のある者とならぬとも限らず、兎に角世の中に在るものを契約物件として契約するのであるから、決して禁止すべき性質のもので無く、サイコロを転がして丁半の出かた如何によつて勝負を決する賭博とは全く其の根本の性質を異にする一種の契約であるから、延取引としての空相場は許可して然るべきものであるといふ事であつたのださうだ。
 玉乃氏も初めのうちはボアソナードの斯の意見に服する事が出来ず何でも三回ほど議論を戦はしたとの事であるが、遂に三回目に至り法理上の議論でボアソナードに破られ、その意見に服するやうになつたから、ボアソナードの意見に服するのも左る事ながら、初め自分(玉乃)に反対して議論した渋沢へもその旨を申入れ、従来の不明を陳謝して置くのが順当であらうと考へられ、態〻同氏は私を訪れられたのであつた。玉乃氏の如きはこの一事に徴しても、全く義を聞けば直ぐ徙り、不善と知れば直に改むる性質の人であつたと謂ひ得らるるだらう。
 太閤秀吉は義を聞いても徙らず、不善と知つても改めぬといふ如き迷蒙の人では決して無かつたのである。然し、元来が難儀して育つた人で、若い時分に道徳上の修養鍛錬を積んで来て居らなかつたから、まだ元気の潑溂たるうちは頗る進むに便利な人物に出来上つて居り、為に進む事にかけては頗る成功もしたのだが、若い時にあつた元気が衰へ、進み得られぬ時代になつてからは、道徳上の修養鍛錬を経て来て居らぬ弱点が漸次に暴露されて来るやうになり、これまでも屡々申述べて置いた通り、晩年に至り甚だ振はず、石田三成あたりに嗾かされて糟糠の臣を棄て、誠忠無二の加藤清正を遠ざけたりするまでになつたのである。猶子秀次をして高野で自殺を余儀なくせしめた事なぞも、全く秀吉が若い時分に道徳上の修養訓練を積んで来て居らなかつた結果である。
 秀吉の考へた如く、秀次には天下を取らうなぞといふ気は露些かも無かつたのである。然し兎に角秀次は関白職にあつたものだから、関白としての尊厳と勢力とを維持して行きたいとの気があつたのであるが、秀吉には秀次の斯の心を察せず、当然関白たる秀次に帰すべき筈の勢力をも自分に帰せしむるやうにして居つたので、秀次は之を不快に感じ、関白職に当然帰すべき権力だけは之を秀吉に行かぬやうにし自分の手に掌握する法を講じたのである。之が秀吉からは、秀次が不軌を謀つて謀反でもするかのやうに見えたので、遂に高野山に逃れた秀次を無理攻めにして自殺するに至らしめしのみならず、秀次の子女妻妾三十四人を斬に処し、近臣へも夫々切腹を命ずるに至つたのだ。実に残酷この上無き致方であると謂はねばならぬ。それから、死に臨んで、徳川家康に後事の全権を委託せるが如く又委託せざるが如くにした事なぞも、一に秀吉が若い時から道徳上の修養鍛錬を積んで来て居らなかつた結果で、老境に入つて元気が衰へ進む事ができ無くなると共に、元来が鍛へて無い心だから、四方八方に亀裂が出来るやうになつたのである。そこに至ると、流石に徳川家康は豪いもので、平素より道徳上の修養鍛錬を積む事に努力して居つたから、秀吉の如く晩年に至つてボロを暴露するやうな不体裁を演ぜずに立派に瞑目し、徳川十五代の天下を将来し得たのである。
 徳川家康の道徳的修養は、主として天海僧正と藤原惺窩とを師とする事によつて積まれたものだ。家康は殆ど隔日ぐらゐに天海僧正の説教を聴聞したのである。天海僧正の非凡の英傑であつた事と、家康との関係に就ては、既に談話したうちにも申述べて置いたが、同僧正は比叡山延暦寺を本山とする天台宗の僧侶であつたのだ。少し話は横径に入るやうであるが、あの比叡山延暦寺は、誰でも知つてる如く、諡して伝教大師と呼ばるる最澄が、同山に根本中堂を開いてから出来た霊場である。
 日本の仏教は其初め奈良で発達を遂げたもので、天平の頃奈良に於て聖武天皇が玄昉に御帰依あり、次で又良弁僧正へ御帰依になつて東大寺を御造営あらせられて以来、奈良仏教と朝廷との間には密接なる関係を生ずるに至り、随つて僧侶なぞも、奈良の寺に属すれば如何に修行が未熟で学徳がなくつても早く出世ができるやうになり、其極仏教界は漸次に腐敗して来たのである。この大勢を観て、憤然として蹶起したのが伝教大師の最澄である。最澄は神護景雲元年の生れで、近江の人である。十四歳の時に得度して僧となり、初めは猶且奈良で修行したのだが、奈良の僧侶が滔々として顕貴に阿るのみで仏法を疎かにするを慨歎し、比叡山に入つて根本中堂を建てたのが延暦七年である。かねてより奈良仏教に愛想を尽かして居られた桓武天皇に於かせられては、最澄の人物堅固にして仏法の修行厳かなるを賞でさせられ御帰依浅からず、最澄の伝ふる仏法こそ真正の仏法であらうと云ふ思召で、遂に比叡山へ行幸を賜ふほどになつたのだが、最澄は延暦廿三年三十七歳で勅命により入唐し、滞在一年、大乗仏法の奥義を究めて帰朝したのである。
 最澄の建立した比叡山延暦寺に、今日でも猶ほ遺つてをるものに大乗教壇といふのがある。この教壇は問答によつて大乗仏教の修行をする用に供せられたもので、修行中の僧侶は或は時に問者となり或は時に答者となつて其の教壇に上り、互に問答して切磋琢磨したのだが、師僧は傍にあつて其問答を聴き、この師僧が允可を与へてからで無いと一人前の僧侶には成れぬのが法であつた。
 斯る厳密なる修行を積んで来るから、叡山出身の僧は総じて他山出身の者よりも実力に於て勝れて居つたのである。天海僧正は十四歳にして得度出家して以来屡〻叡山に登り、大乗教壇に立つて修行をしたものなさうで、天海僧正が問者になられた時には、如何なる僧も皆苦しめられたとの事である。これほどに勝れた知識の天海僧正と有名な儒者藤原惺窩とに就て常に教を受けたのだから、家康は秀吉と違つて道徳上の修養が十分に出来て居つたのである。家康が死に至るまで日夜怠らず力めたところは、勤、倹、学、の三つであつたのだ。かくして品性を鍛錬し知能を磨いて来たから、家康の判断には錯誤少く、能く徳川十五代三百年の泰平を持続し得たのである。
 天才があり天品があれば修養鍛錬なぞは不用のものである、能く世間の圧迫に堪へて踏みこたへさへすれば結局強い者が勝つから、何にも道徳だの恭敬だのと騒ぐ必要は無いなぞと、随分無茶な乱暴な議論を唱へる者が近頃の青年子弟中には往々見受けらるるやうであるが、それは一を知つて二を知らぬといふものだ。元気の盛んな若いうちは或る程度まで其れで通し得られても、少し元気が衰へて老境に入れば古今の英雄たる秀吉でさへ遂に弱点を暴露するに至つたほどで、修養の無い人の末路は悲惨なものだ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.235-239
底本の記事タイトル:二五五 竜門雑誌 第三五八号 大正七年三月 : 実験論語処世談(卅三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第358号(竜門社, 1918.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第24号(実業之世界社, 1917.12.15)