デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一

4. 家康の道徳的修養

いえやすのどうとくてきしゅうよう

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 徳川家康の道徳的修養は、主として天海僧正と藤原惺窩とを師とする事によつて積まれたものだ。家康は殆ど隔日ぐらゐに天海僧正の説教を聴聞したのである。天海僧正の非凡の英傑であつた事と、家康との関係に就ては、既に談話したうちにも申述べて置いたが、同僧正は比叡山延暦寺を本山とする天台宗の僧侶であつたのだ。少し話は横径に入るやうであるが、あの比叡山延暦寺は、誰でも知つてる如く、諡して伝教大師と呼ばるる最澄が、同山に根本中堂を開いてから出来た霊場である。
 日本の仏教は其初め奈良で発達を遂げたもので、天平の頃奈良に於て聖武天皇が玄昉に御帰依あり、次で又良弁僧正へ御帰依になつて東大寺を御造営あらせられて以来、奈良仏教と朝廷との間には密接なる関係を生ずるに至り、随つて僧侶なぞも、奈良の寺に属すれば如何に修行が未熟で学徳がなくつても早く出世ができるやうになり、其極仏教界は漸次に腐敗して来たのである。この大勢を観て、憤然として蹶起したのが伝教大師の最澄である。最澄は神護景雲元年の生れで、近江の人である。十四歳の時に得度して僧となり、初めは猶且奈良で修行したのだが、奈良の僧侶が滔々として顕貴に阿るのみで仏法を疎かにするを慨歎し、比叡山に入つて根本中堂を建てたのが延暦七年である。かねてより奈良仏教に愛想を尽かして居られた桓武天皇に於かせられては、最澄の人物堅固にして仏法の修行厳かなるを賞でさせられ御帰依浅からず、最澄の伝ふる仏法こそ真正の仏法であらうと云ふ思召で、遂に比叡山へ行幸を賜ふほどになつたのだが、最澄は延暦廿三年三十七歳で勅命により入唐し、滞在一年、大乗仏法の奥義を究めて帰朝したのである。
 最澄の建立した比叡山延暦寺に、今日でも猶ほ遺つてをるものに大乗教壇といふのがある。この教壇は問答によつて大乗仏教の修行をする用に供せられたもので、修行中の僧侶は或は時に問者となり或は時に答者となつて其の教壇に上り、互に問答して切磋琢磨したのだが、師僧は傍にあつて其問答を聴き、この師僧が允可を与へてからで無いと一人前の僧侶には成れぬのが法であつた。
 斯る厳密なる修行を積んで来るから、叡山出身の僧は総じて他山出身の者よりも実力に於て勝れて居つたのである。天海僧正は十四歳にして得度出家して以来屡〻叡山に登り、大乗教壇に立つて修行をしたものなさうで、天海僧正が問者になられた時には、如何なる僧も皆苦しめられたとの事である。これほどに勝れた知識の天海僧正と有名な儒者藤原惺窩とに就て常に教を受けたのだから、家康は秀吉と違つて道徳上の修養が十分に出来て居つたのである。家康が死に至るまで日夜怠らず力めたところは、勤、倹、学、の三つであつたのだ。かくして品性を鍛錬し知能を磨いて来たから、家康の判断には錯誤少く、能く徳川十五代三百年の泰平を持続し得たのである。
 天才があり天品があれば修養鍛錬なぞは不用のものである、能く世間の圧迫に堪へて踏みこたへさへすれば結局強い者が勝つから、何にも道徳だの恭敬だのと騒ぐ必要は無いなぞと、随分無茶な乱暴な議論を唱へる者が近頃の青年子弟中には往々見受けらるるやうであるが、それは一を知つて二を知らぬといふものだ。元気の盛んな若いうちは或る程度まで其れで通し得られても、少し元気が衰へて老境に入れば古今の英雄たる秀吉でさへ遂に弱点を暴露するに至つたほどで、修養の無い人の末路は悲惨なものだ。

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キーワード
徳川家康, 道徳, , 修養
デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.235-239
底本の記事タイトル:二五五 竜門雑誌 第三五八号 大正七年三月 : 実験論語処世談(卅三回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第358号(竜門社, 1918.03)
初出誌:『実業之世界』第14巻第24号(実業之世界社, 1917.12.15)