デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一

1. 孔子の意政治にあり

こうしのいせいじにあり

[33a]-1

子曰。甚矣吾衰也。久矣不復夢見周公。【述而第七】
(子曰く、甚しい哉、吾が衰へたることや。久しい哉、吾れ復た夢に周公を見ざることや。)
 茲に掲げた章句は、孔夫子が何時頃発せられた語であるか、甚だ判然致さぬが、恐らく六十八歳で魯に帰られても魯の用ひる処とならず、為に文教を専らとし弟子の教養に全力を注がるゝやうになつてから発せられた語で、当時孔夫子の主張せらるゝ政道に耳を傾け孔夫子を用ひる明君の無きを嘆息されたものであらうと思ふのだ。随つて、その意たるや『吾れも、今日までは随分熱心に王道を行はんとすることに熱心し、用ひてくれる明君さへあれば、周の武王に於ける周公を以つて任じやうとし、為に屡々周公を夢に見るほどであつたにも拘らず、斯る明君遂に世に無く、そのうち自分の体力元気も衰へて来て、什麽思ふやうに活動が能きず此頃では夢に周公を見ることだに無くなつてしまつた』といふ事であらうと察せられるる。この章句なぞも、孔夫子が何時頃発せられたものであるか、之を明にするを得れば、そのうちに含まれてある孔夫子の真意を遺憾無く知り得らるゝやうにもなる。それにつけても、是まで談話した間にも一二度申述べた如く、孔夫子の言と行とを結びつけた年譜を編成して置くことが頗る必要であらうと思ふのだ。
 既に屡々論じて置いた如く、孔夫子は決して単純なる教育家でも徳行家でも無く、孔夫子終生の目的は事業にあつたもので、仁義の王道を天下に施かんとし、それには先づ周室の再興を謀らねばならぬと考へ、周室を再興するには魯王を押し立てゝ護りあげるのが捷径なりと思はれ、御自分は新しい周の王たるべき魯王の周公を以つて任ぜんとせられたのである。孔夫子が、魯の定公に反いて起つた季氏に更に又反いて旗を挙げた公山不紐に召された際に、大義名分の上から律すれば、不紐を大に責めねばならぬにも拘らず、却つて其召に応じて往かうとせられた事なども、孔夫子が政治の実際に当らん事を冀ふの情が切で、誰でも関はぬから孔夫子を用ひやうといふ気のある人でさへあれば、その人の周公となり、志を遂げたいものであると思つて居られたからだ。

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デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一
底本:『実業之世界』第15巻第1号(実業之世界社, 1918.01.01)p.104-106
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第六十二回 孔子の政治的手腕 / 男爵渋沢栄一