デジタル版「実験論語処世談」[33a](補遺) / 渋沢栄一

実験論語処世談 第六十二[六十一]回 孔子の政治的手腕
『実業之世界』第15巻第1号(実業之世界社, 1918.01.01)p.104-106

子曰。甚矣吾衰也。久矣不復夢見周公。【述而第七】
(子曰く、甚しい哉、吾が衰へたることや。久しい哉、吾れ復た夢に周公を見ざることや。)
 茲に掲げた章句は、孔夫子が何時頃発せられた語であるか、甚だ判然致さぬが、恐らく六十八歳で魯に帰られても魯の用ひる処とならず、為に文教を専らとし弟子の教養に全力を注がるゝやうになつてから発せられた語で、当時孔夫子の主張せらるゝ政道に耳を傾け孔夫子を用ひる明君の無きを嘆息されたものであらうと思ふのだ。随つて、その意たるや『吾れも、今日までは随分熱心に王道を行はんとすることに熱心し、用ひてくれる明君さへあれば、周の武王に於ける周公を以つて任じやうとし、為に屡々周公を夢に見るほどであつたにも拘らず、斯る明君遂に世に無く、そのうち自分の体力元気も衰へて来て、什麽思ふやうに活動が能きず此頃では夢に周公を見ることだに無くなつてしまつた』といふ事であらうと察せられるる。この章句なぞも、孔夫子が何時頃発せられたものであるか、之を明にするを得れば、そのうちに含まれてある孔夫子の真意を遺憾無く知り得らるゝやうにもなる。それにつけても、是まで談話した間にも一二度申述べた如く、孔夫子の言と行とを結びつけた年譜を編成して置くことが頗る必要であらうと思ふのだ。
 既に屡々論じて置いた如く、孔夫子は決して単純なる教育家でも徳行家でも無く、孔夫子終生の目的は事業にあつたもので、仁義の王道を天下に施かんとし、それには先づ周室の再興を謀らねばならぬと考へ、周室を再興するには魯王を押し立てゝ護りあげるのが捷径なりと思はれ、御自分は新しい周の王たるべき魯王の周公を以つて任ぜんとせられたのである。孔夫子が、魯の定公に反いて起つた季氏に更に又反いて旗を挙げた公山不紐に召された際に、大義名分の上から律すれば、不紐を大に責めねばならぬにも拘らず、却つて其召に応じて往かうとせられた事なども、孔夫子が政治の実際に当らん事を冀ふの情が切で、誰でも関はぬから孔夫子を用ひやうといふ気のある人でさへあれば、その人の周公となり、志を遂げたいものであると思つて居られたからだ。
 其後、魯の定公は大に孔夫子を用ひんとする意を起し、初めは孔夫子を中都の宰に任じ、その成績が挙つて四方之に則るを見るや、遂に大司冠の職に昇ぼせたのである。為に、大宰相にまではならなかったが、定公の十四年、五十六歳の頃には、それまで不遇であった孔夫子も「史記世家」に「相事を摂行す」とあるから、摂相とならるゝまでに至つた事は明かだ。魯が孔夫子を用ひて、大に其の国威を発揚しかけて来るのを知つた隣国の斉では、之れに対し甚しく危惧の念を催し、斉王景公より魯王定公に驩交を申込んで来たのである。然るに、この申込に対し、魯の定公は平然車に乗つて出で、斉王と夾谷と申す場所に会見を遂げやうとせられたのだが、孔夫子は之を諫め「文事ある者は必ず武備あり」と説き、諸侯の国境外に出づるや古来より儀仗を具へて出遊するのが例であるからとて、近衛の士を従へて会見の場所に赴かしめ之によつて益々魯の国威を発揚したのみならず、又魯の太夫のうちにあつて国政を乱つた少政卯なるものを誅し、為に「史記世家」に「三月魯国大に治る」の句あるまでに至らしめたところなぞは、明に孔夫子が政治家として、又事業家として凡ならざる手腕のあつた事を談るものだ。
 然し、魯王も遂に永く孔夫子を用ひる能はず、魯王と孔夫子との間に感情の衝突を来すに至りでもしたものか、斉から女の楽人を送つてきたのを機とし、孔夫子は憤然として魯を去つてしまはれ爾後仕ふるに足る明君に回り遇はず、僅に「春秋」を編し、之によつて「天下の乱臣賊子懼る」の精神上の権威を有せらるゝものとなり、自ら安んずるに至られたのであるが、政治の実際に活躍せんとして居られた時代には、自ら周の武王に対する周公を以つて深く任じて居られた事とて寤寐の間にも周公を忘れられなかつたものと想はれる。
 然し、孔夫子が茲に掲げた章句に於て、「久しい哉、吾れ復た夢に周公を見ざることや」と曰はれて居るのは必ずしも「是れまでは随分屡々周公の夢を見たが、昨今は夢を見ぬやうになつてしまつた」といふ意味を談られたもので無く、夢を仮りて御自分の感慨を漏され、其の真意は時世の日々に益々非にして、自ら周公を以て任じ大に国政に貢献するところあらんとする孔夫子を、天下の王たるもの侯公たる者が、棄てて顧みぬのを諷されたものであるかも知れぬのだ。
 昔から「聖人に夢無し」なぞいふ諺もある。私は決して聖人であるんでも何んでも無いが、大体に於て夢を見ぬ方の質である。随つて、私自身の経験から、夢に就て談るべき何者をも持つて居らぬが、時に偶々夢を見るやうな事があれば、それは寝た時の具合で、高い処から急に低い処へ落ちでもしたかのやうな夢を見るぐらゐに過ぎぬのである。然し、この種類の夢は、殆んど総ての人が皆な見る夢で、珍らしくも何んとも無い。
 斯くの如く聖人に夢無し式の私にも、たゞ一つだけ不思議な夢を見た例がある。よく西洋の音楽者なぞが、夢の中に曲を作つたとか、或は又文章家で夢のうちに文章を作つた者があるとかいふ譚を聞いてるが私は夢の中で詩を作つたのだ。何んでも友人と一緒に景色の美しいところを逍遥して居るうちに、二三句ばかりの詩が出来て「こんな詩が出来たから見てくれ」と、それを同行のものに示した夢であつたやうに記憶する。詩は固より立派なチヤンとしたもので無かつたに相違無いが、兎に角詩の体を成してたもので、翌朝目を醒ましてからも、判然と其の詩句を記憶して居り、当時は之を他人に示したことのあるほどだ。然し、余程古るい事であるから昨今では何んな詩句であつたか、全く記憶から逸してしまつて居る。
 然し、この詩とても私が全く夢の中で作つたものか何うか今になほ疑問のうちにある。或は半睡半醒のうちに作つた詩を夢中に作つたかの如く思ひ違へて居るのかも知れぬ。
子曰。志於道。拠於徳。依於仁。游於芸。【述而第七】
(子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ)
 茲に掲げた章句は、人が完全なる人物にならうとするには如何なる修養を致せば宜しいか、之を説かれたものである。完全なる人物にならうとすれば、まず第一に道に志さねばならぬものだ。道とは人たるものゝ当然履むべき人道のことで、人道を履んで世渡りを致さうといふ気が無いやうでは、迚ても完全なる人物には成り得ぬものだ。「世説」といふ書に載せらるゝ晋王猛の如き「桓温の関に入るを聞くや偈を被り之に謁し、虱を捫り当世の務を談じ旁ら人無きが若し」とあるが、斯く人間の道を履まうといふ気の無いものは、到底完全な人物に成れぬものである。
 次に徳に拠つて世に処さねばならぬのだが、徳とは韓退之の「原道」にある如く、己れに足つて外に待つ無き事で、自ら疚しい処が無く、外に利を求めて他へ害を及ぼす如き憂ひの無いやうにする心情である。仁とは之れも「原道」にある如く、博く愛する事で、単に自ら足るを知つて他へ迷惑を懸けぬのみならず、他へ利益幸福を頒ち与へやうとする心情である。この心情が無ければ、人は到底、完全な人物であるとは謂へぬのだ。
 人には単に志のあるのみでは、如何に其志が人道を履まうとする立派なものであっても、人の人たる効果を挙げ得ぬ事になる。人に行があつて初じめて其人の価値が顕るゝのだ。徳と仁とは其根底を人の心情に置くに相違ないが、直に行為となつて顕はるゝものだ。故に、完全なる人物とならうとするには、道に志すと共に、徳に拠り仁に依らねばならぬのであるが、それ丈けでは人物が堅苦るしい窮屈なものになつてしまうから、茲に芸に游んで多少の余裕を拵へて置くことが必要になるのだ。(青柳生憶記)
底本:『実業之世界』第15巻第1号(実業之世界社, 1918.01.01)p.104-106
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第六十二回 孔子の政治的手腕 / 男爵渋沢栄一