デジタル版「実験論語処世談」[52b](補遺) / 渋沢栄一

実験論語処世談 第九十三[九十二]回 現代人の最大欠陥
『実業之世界』第18巻第1号(実業之世界社, 1921.01)p.44-49

子見斉衰者冕衣裳者与瞽者。見之雖少必作。過之必趨。【子罕第九】
(子斉衰の者と冕衣裳の者と瞽者を見るとき。之を見れば少しと雖も必ず作つ。之を過れば必ず趨る。)
 此の章は孔子が人に接するの誠敬なるを記したものであるが、元来支那の周の時代には礼法を非常に喧しく言ふたものであつた。而して其の礼といふ事も非常に広い意味であつて、天下国家を治むる法度制令より、個人としての常住坐臥に到る迄悉く之を包含して居り、今日一般に言ふ処の行儀作法とは違つて居ります。孔子が曾て顔淵の仁を問ふたに答へて、『己に克て礼を復むを仁と為す。一日己に克て礼を復めば、天下仁に帰す』と謂はれた程、夫れ程礼法といふものを重んぜられたのである。孔子の時代は非常に殺伐な時代であつたが、夫れでも礼と楽とを以て、政治の一要件とされて居つた様である。孔子が特に之を唱導された事は言ふ迄もない。
 此章を簡単に講義すれば、孔子は坐して居らるゝ時、喪服を着た人(斉衰者)貴人の礼装したる人(冕衣裳者)及び眼の見えぬ人(瞽者)を見らるゝ時は、其の人の年齢が孔子よりも若い人であつても、必ず起つて之を敬し、又孔子が其の人々の前を通行する時は、必ず趨行せらるゝを常とされたといふ意味である。蓋し喪ある人を哀しみ、爵位ある人を尊み、不具の人を愍むの誠心が、期せずして孔子の行ひに顕はれたのであつて、是れ聖人の心である。尚ほ単に瞽者とあるけれども、之れは眼の見えぬ者で相当の官職を有して居つた人を指したものであらうか。
 此の時代と現代とは、総てに於て著しい相違がありますから、之を移して直ちに現代に当篏めることは無理であるかも知れないが、現代の如く挙世利に奔り、人情紙よりも薄すく、道徳地を払はんとするに到れるは誠に寒心に堪えざる次第であつて、資本家と労働者の紛争の如きも両者共に誠意の欠けてゐるのも一原因であると推察する。されば少くも喪ある人を哀しみ、爵位ある人を尊み、不具の人を愍むといふ孔子の如き誠意があつたならば、恐らく頻々と起る紛争を見ずして、円満に解決の途を求むる事が出来るだらうと思ふ。
顔淵喟然歎曰。仰之弥高。鑽之弥堅。瞻之在前。忽焉在後。夫子循循然善誘人。博我以文。約我以礼。欲罷不能。既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲従之未[末]由也已。【子罕第九】
(顔淵喟然として歎じて曰く。之を仰げば弥高く。之を鑽れば弥堅し。之を瞻るに前に在り忽焉として後に在り。夫子循循然として善く人を誘ふ。我に博むるに文を以てし。我を約するに礼を以てす。罷んと欲して能はず。既に吾が才を竭せり。立つ所有りて卓爾たるが如し。之に従はんと欲すと雖も由未[末]きのみ。)
 此の章句は顔淵が孔子の常住坐臥を見られて、其の道徳の妙用を感歎されたのであつて、顔淵が孔子の門に学んで既に得るあるの後、喟然として感歎の声を発して言ふ。夫子の道徳は之を仰き望めば弥々高くして其の頂上を認め難く、又鑽り鑿たんとすれば弥々堅くして鑿ち入り難い。夫子は啻に高く堅い計りでなく、之を凝視せんとするに、忽ち前に在るかと思へば忽ち後に在るが如くにして、其の道徳妙用は所謂広大無辺である。而かも其の教へは次第順序があつて、善く人を引きて道に入らしめ、我を博むるに詩書礼楽の文を以てして古今の学に通ぜしめ、然る後、我と約するに礼を以てして聞く所知る所を行ふに凡て礼に由らしめられる。
 斯う謂ふ風であるから知らず識らず夫子の為めに感化せられて、中途で罷めんと欲しても廃すること能はず、日に月に進んで既に吾が心力を尽し、今に於ては夫子の道徳を認め得るに至り、卓然として我が前に屹立せるが如き者を見る。而して之に斉しからんと欲して勗めつゝあるけれども、未だ之を能くし得ないと述べられたのである。
 孔子には弟子三千と称せられ、其の六芸に通ずる者七十二人の多きに達したと伝へられて居るが、中にも孔子の十哲と謂はれて殊に優れた門弟が十人あつた。此の十哲は夫々特長を有し、閔子騫、冉伯牛、仲弓は徳行に勝れ、宰我、子貢は言語に秀で、冉有、子路は政治に、子游、子夏は文学に各一頭地を抜いて居つたが、顔淵は最も徳行勝れ、孔門の第一人者として孔子の最も信任を得た人である。四十に達せずして夫子に先立つて死なれたが、其際孔子が、『噫、天予を喪せり、天予を喪せり』と嘆じ、『子之を哭して慟ず』と論語に在るが如く、非常に之を惜しまれた。顔淵は夫程徳行の高い人であつたが、而かも尚遠く夫子に及ばざる事を感歎したのである。
 一体孔子は、後世に到つて道徳といふ事だけを以て聖人とされてゐるが、身の行ひの正しく、事に当つて其の説を言ひ判断を下すに道理に叶ふて居られた事は言ふ迄もないが、喜、怒、哀、楽、愛、悪、慾の七情の発動が最も自然的で、之を砕いて言へば最も平凡な聖人であつた。が、夫れ計りでなく夫子は六芸に通じ、当時の古典を渉猟し識博く学深く、詩書礼楽の外に当時に於ける天文学、化学及び技術的の事にも通暁せられて居つた。孔子が直接筆を執られた『春秋』の如きは其の文章の適切にして深淵なるを見る可きである。又楽に通じ楽の善悪に就て批評された事もある。
 要するに孔子は、国を治め、人民をして安からしむるの大学問のならず、凡ての微細の事にも通じて居られた。殊に卑近の処に例を採つて解釈されたのは、孔子の孔子たる所以であつて、聖人たるの人格が茲に発露して居る。
 古来、英雄、豪傑、偉人と称される人々には何れも特長があつて、意志が強いとか、才があるとか、学識があるとか言ふ一面には、気が短かいとか、色を好むとか、文学を知らぬとかと言ふ欠点がある。換言すれば、非凡な人は或点には大に勝れて居つて、然かも他面には欠点があつた。然るに孔子は平凡人の凡ての事に通じ、然かも傑出して居つたと、先年井上哲次郎氏が語られた事があるが、実際其の通りである。
 今の世に孔子の如き聖人を求むるは難い。否、寧ろ不可能である。然し孔子は古来の英雄豪傑と異り、凡人の典型である。其の平々卑々の教訓に悉く我等の学ぶ可き道が説かれてある。されば及ばずと雖も大に努めて、修養を積まなければならぬと思ふ。
子疾。病。子路使門人為臣。病間曰。久矣哉。由之行詐也。無臣而為有臣。吾誰欺。欺天乎。且予与其死於臣之手也。無寧死於二三子之手乎。且予縦不得大葬。予死於道路乎。【子罕第九】
(子疾む。病なり。子路門人をして臣と為らしむ。病の間に曰く。久しい哉。由の詐を行ふや。臣無く而るに臣有りと為す。吾れ誰をか欺かん。天を欺かん乎。且つ予れ其の臣の手に死せんよりは。無寧ろ二三子の手に死せん乎。且つ予れ縦ひ大葬を得ざるも。予は道路に死せん乎。)
 子路は孔門の十哲の一人であるが、其の性質卒直にして悪く言へば早合点の人であつたらしい。曾て孔子が其の道の行はれざるを慨して『道行はれず、桴に乗りて海に浮ばん、我に従はん者は其れ由か』と言はれたときに、子路之を聞いて喜んだ。然るに孔子は更に『由や勇を好むこと我に過ぎたり』と戒められた事がある。詰り子路は、義を見て勇む態の人であつたが、孔子を敬し、孔子を思ふ余り、往々にして道理に合はぬ様な事をして、後に孔子に戒められて居る。
 此の章句は簡単に言へば子路の詐を行ふを戒められたのであるが、孔子の病の甚だしかつた時、子路が主唱して、諸門弟をして孔子の家臣とならしめた。之れは孔子が曩きに魯の司冠となつて家臣があつたけれども、退官後は家臣がなかつたので、万一孔子が死去せられては其の葬りが庶人と等しいので、師を思ふの余り斯くしたのである。処が後に到つて孔子の病の少しく癒えし時、此の事を聞き、子路を戒められて、家来がないのを、今更家来を作つて見た処で、誰を欺ふとするのか。私に家来のない事は衆人の知る処であるから人を欺く事は出来ない。されば天を欺ふとするのか。人として天を欺くは大罪であると深く之を責め、且私は詐りの臣の手に死なんよりは寧ろ門人の手に死なん事を望むものであつて、縦令君臣の礼を以てする大葬を受くる事は出来ぬとしても、二三の門弟子が在れば、道路に放棄して葬られぬ様な事はあるまいと言はれたのである。
 之れは孔子が、所謂虚礼を戒められたのであつて、子路が師を思ふの情は掬すべきものであるけれども、其の分量即ち程度が超えて居つた。此の様な事は、今の世の中にも有り勝な事であつて、必ずしも悪いとは言へないが、其の程度を超えてはならない。孔子の傑い処が、斯かる事実に就ても見得らるるのである。而して此の章句に於て、子路の師を思ふ情愛と、孔子の能く門弟子を教へられたる、今の世には多く見得られない師弟の情合を窺ひ知る事が出来る。
 現代は文化の度が大に進んだけれども、師弟の関係の如きは、其の間に真の温情と敬愛とを欠き、其の結果、学生々徒の教職員の排斥と言ふ如き不祥事を往々見聞する。之れは人の師たる者のゝ誠意と温情の掛けてゐるのも原因であらうが、学生にも敬愛の念慮に欠けた処がある。又虚栄は現代人通有の弊害であるが、之れは大に慎むべき事であつて、近時漸く虚礼廃止の声が高まり、生活改善を目的とする会なども出来た様であるが、今後は更に之れが徹底を期する必要があると思ふ。
子貢曰。有美玉於斯。韞匵而蔵諸。求善賈而沽諸。子曰。沽之哉。沽之哉。我待賈者也。【子罕第九】
(子貢曰く。美玉斯に有り。匵に韞めて諸を蔵さんか。善き賈を求めて諸を沽らんかと。子曰く。之を沽らん哉。之を沽らん哉。我は賈を待つ者なり。)
 子貢が、茲に美しい玉があります。之を匣の中に入れて深く蔵して置くべきでせうか、又は善き価を求めて之を売るべきでせうかと孔子に質問した。之れは孔子が六芸に通じ道徳高いにも拘らず仕官せざるを見て、美玉を以て道に喩へたのであつて、蔵は仕へざるに喩へ、沽は仕ふるに喩へたのである。孔子は之れに答へて、売らんかな、売らんかな、只相当の価を持つものであると言はれた。つまり、仕官して道を行ふことは固より望む所であるけれども、士は礼を待つて出づ可きものであつて、自ら衒ひ、自ら屈して仕ふる事を欲しないといふ意である。
 之を今の時代に見るに、美玉はさて置き、瑾玉や欠玉でありながら、之れを衒ふて美玉となし、事実には十倍も百倍もの自家広告をなして、売らん哉、売らん哉としてゐる人が多い。さうかと思ふと又一面には、深く蔵れてゐる隠君子にして高い価を持つてゐる人もあるが、之は共に宜しくない。孰れも其の程度を得なければならぬものである。前者は固より排すべきである。が、後者の深く蔵れて世に出でざるも、人間としての使命に背くものである。
 一体人間が世に在る以上は、必ず務めがなければならぬものである。即ち各分に応じて、先づ之れを隣里に行ひ、更に進んでは之を郷党に及ぼし、国家社会にまで及ぼすべきである。君子の道は端を夫婦に発すと言はれてゐる程であつて、君子の道が一郷に行はるる様になれば、之れを広くすれば一郡、一県、一国に及び、社会を益する事となる。されば人は分に応じて社会の為めに尽すの責務あるを思ひ、大なる器を抱く人は国家社会に、小なる器の人は先づ之れを隣里に施すべきである。併しながら、此種の隠君子は極めて尠く、一般に自家広告的でなり、殊に近時此の傾向が著しくなつたのは誠に慨しい次第である。私は切に其の反省を促して已まぬものである。
子欲居九夷。或曰。陋。如之何。子曰。君子居之。何陋之有。【子罕第九】
(子九夷に居らんと欲す。或は曰く。陋。之を如何せんと。子曰く。君子之に居らば、何の陋き事か之れ有らん。)
 孔子が、当時の魯は勿論、衛に行つても、其他の何所に行つても道の行はれざるを見て、歎息され、中国に居つても到底道が行はれざる故、此国を去つて九夷に移らうと言はれた。然し之れは真に移住されやうと欲したのではなく、桴に乗りて海に浮ばんと言はれしと同じく、中国の衰へて明君なく、道の遂に行はれざるを見て、此の歎を発せられたのである。然るに或人其の真意を解せず、九夷は未開の地にて風俗悪く君子の居る可き処ではない。之を如何にせらるゝやと問ふた。孔子は之に答へて、君子の居る処は如何なる悪風俗であつても自ら化して善良となるものである。其の陋を憂ふるに足らずと言はれた。之れが此の章の大体の意味であつて、三島先生も斯ういふ意味に講義されて居る。
 此の九夷といふのは、東方の九種の夷を指したものであるが、約十年計り前に孔子祭典会に於て故重野成斎氏が之に就て講演された一節に、『君子居之』は、『君子之れに居れり』と読むべきであつて、九夷の内には日本も入つてゐる。即ち当時(周の時代)既に日本は相当に文物制度が発達して居つて、日本の君子国といふ事が知られて居つた為に、孔子が斯く謂はれたのであると解釈された。之は果して根拠のある事かどうかは、成斎氏が既に故人となられたので今之を確かむる事は出来ないが、記憶に残つてゐるので、御参考までに申述べて置き度いと思ふ。
 人は其の交はる友によりて、感化され易い。されば其の友の選択に就ては充分の注意を払ふ可きであるが、然し君子は如何なる悪風俗の処に住んでも、決して之れが為めに悪化さるゝ様な事はなく、却て其の接触する人を善良化し、漸次郷党を薫化するに至るものである。畢竟、風俗の悪るい処に住んで之に悪化さるゝのは、意志が薄弱にして誘惑に勝つ事が出来ぬ為めであるから、須く意志を鞏固にし、現代の悪風潮に染まぬ様にしなければならぬと思ふ。
底本(初出誌):『実業之世界』第18巻第1号(実業之世界社, 1921.01)p.44-49
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第九十三回 現代人の最大欠陥 / 子爵渋沢栄一