デジタル版「実験論語処世談」(34) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.239-245

 孔夫子の曰はれた如く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶといふやうな、完全にして併も綽々たる余裕を存する人格の人は却〻世間に少いもので、政道に心掛くれば政道に囚はれ、大義を明かにすることに腐心する者は同じく又之に囚はれてしまふのが、一般人の弱点である。孔夫子の所謂「芸」とは「六芸」の事で、近頃の語を以て謂へば「趣味」である。人は如何に其行為に於て欠くるところ無く、その思想が正しくあつても、なほ趣味といふものを持つて居ねばならぬものだ、といふのが孔夫子の御意見である。
 故伊藤公なぞは却〻優れた才を持つて居られた方ゆゑ、志は政治にあつてもいろいろさまざまの芸があつて、詩も作れば書も達者、音曲のことも心得て居られるといふ風であつた。然し、猶且一生政治に囚はれて暮らされた方で、死ぬまで政治の囚はれより全く脱してしまはれる訳には参らなかつたらしく想へる。つまり哈爾賓で歿くなられるまで、政治癖から脱け切れなかつた方であると観るのが至当だらう。能く世間では伊藤公を初物喰ひだなんかと評して笑つたものだが、それも之も、政治に囚はれて政治癖といふものに取つ付かれ、それが歿くなられるまで身体から脱けなかつたからの事だ。然し又、公が政治に囚はれて政治と共に終始せられた結果、日本の国運を振興し、国体の安固を計り、国威を永久に発揚するには、日本にも欧洲諸先進国に於けるが如く憲法政治を施かねばならぬものである事に想ひ到られ、之が為に工夫尽力せられ、遂に欽定憲法の発布を見、今日の日本をして立憲国としての繁栄を享有するを得せしむるに至らせられたのは、全く以て同公に先見の明があつたからの事で、其功績に至つては、決して忘却すべからざるものである。この一点のみでも伊藤公は実に優れた豪い人であつたと謂はねばならぬのだ。
 なほ生きて居られる方に対して彼是と批評を加へるのは甚だ以て恐縮の次第であるが、西園寺公望公は之を伊藤博文公に比較すれば政治に囚はるるやうな傾向無く、綽々として余裕のある芸に游ぶ仁だと謂ひ得られる。この点に於ては或は伊藤公に優つた処があるとも評し得られぬでも無いが、さてただ一つ困るのは、西園寺公が芸に游ぶ方ばかりを我々に見せて下さるのみで、西園寺公として持つて居られる西園寺公の西園寺公たる本領を国家の為に発揮して下さらぬ事である。
 一体、何の某には綽々として余裕があるからとて世間が賞めもし又感服もするのは、その人の本領以外に、猶ほ芸に游ぶ余裕があるからの事だ。ただ芸に游ぶのみが能で本領の無い人であつたとしたら、敢て賞むるにも感服するにも及ばぬのである。成る程、西園寺公は芸のある方で、書も旨く詩文にも達者、又俳句なぞも詠まれ、琵琶までも弾ぜらるるとの事だが、失礼ながら西園寺公ぐらゐの書の人や詩文に達者なものは敢て西園寺公を俟たなくつても世間に幾干もある。西園寺公の俳句だからとて、琵琶だからとて、そんなに賞めねばならぬほどのものでは無いだらう。西園寺公にして若し西園寺公たる本領を永久に発揮せられず、ただ少し書が旨いとか詩文に堪能だとか、俳句を詠むとか、琵琶を弾かれるとかいふ丈けで他に何も真実の処が無いとしたら、西園寺公を称して綽々たる余裕のある仁だとは言ひ得られ無くなる。然るに西園寺公昨今の模様を拝見するに、綽々として余裕があるには相違無いが、余裕が有り過ぎて綽々たる余裕ばかりとなり、何んだか西園寺公の本領が少しも発揮せられて居らぬやうに想はれてならぬ。如何に人は芸に游べる丈けの余裕が無ければならぬものだからとて、西園寺公のやうに満身悉く是れ余裕で、芸に游ぶ方ばかりになつてしまはれても困る。私は西園寺公にもつと本気になつて実質の事を行つて、公の本領を発揮して頂きたいのである。西園寺公は如何にも豪い方でも、昨今のやうでは毫も豪い処が無いのと同じ事になつてしまふではないか。
 一言にして謂へば、恐れ多い申分だが、西園寺公は私から観れば甚だ勉強の足らぬ方である。西園寺公は元来非常に優れた才のあらせらるる仁で、聡明無比、先途の能く見え透く方であられらるから、世の中の事は如何に勉強して見たところで大した効果を挙げらるるわけのもので無く、殊に政治の事などになればその傾が甚しく、自分の力一つで天下の大勢を動かし得られもせず、成る通りにしか成らぬものである事を明かに理解して居られるので、如何ほど勉強しても結局落着くところは何処であるかをチヤンと予め知つて居らるるものだから、冗々しくて迚も勉強する気に成りなされぬだらうが、世の中の事は爾う西園寺公のやうにタカをくくつて高踏されるばかりでも困る。
 太閤秀吉は古今独歩の豪傑で、才智もあり技能もあり、又胆力もあつた上になほ綽々たる余裕があり、如何なる方面から観察しても非凡の人物たるに相違無いが、従来談話したうちにも屡〻申述べて置いた如く、最後の甚だ振はなかつた人である。之には色々の原因もあらうが、晩年に及び秀吉の秀吉たる本領を発揮する事の方が御留守になつて、綽々たる余裕の方ばかりを発揮し、芸に游ぶのが主となり、勉強を中途で廃めてしまつたからだ。秀吉も信長が本能寺で光秀に弑せられた頃には随分勉強したものであつたが、晩年になつては、淀君、秀頼の愛に溺れたり、北野に茶の湯を催したり、聚楽第の土木を起して主上の行幸を仰いだり、什麽も芸に游ぶ方に意を注いで、秀吉の秀吉たる本領を発揮する方を等閑にしたかの観がある。朝鮮征伐を中途で見合せ渡鮮中の諸将に帰国を命じた事なぞも、秀吉の健康が弱くなつた為であるとばかりは謂へぬ。猶且若い時のやうに勉強する気が無くなつてしまつたからだ。それが原因で、秀吉は其晩年を全うし得なかつたのである。
 秀吉に反し徳川家康は、死ぬまで勉強を廃めず一生涯勉強して暮らした人で、その病篤く命旦夕に迫るまでになつても猶ほ、国事を憂ひ諸侯を病床に招き、「我れ死して秀忠に若し失敗あらば、侯伯の其器に当る者代つて天下の権を取るべし。天下は一人の天下に非ず」などと遺言したところは、如何に家康が勉強の人であるかを窺ひ知り得られる。斯く家康は死ぬまで勉強であつたから、秀吉の如く晩年を汚さず、有終の美を済して瞑目することが出来たのだ。勉強して暮らさねば、秀吉の如き豪傑でもその最後が芳しく無いものである。
 西園寺公の如く聡明で目先途の見える方から、私の如く冗らぬ事にまで勉強し齷齪ばかりして忙しく其日を送つてをる者を観られたら、如何にも馬鹿な人間のやうになつて見えるやも知れぬが、又私から西園寺公を観れば、同公は如何にも勉強の足らぬ人になつて見え、什麽しても猶勉強し、西園寺公の西園寺公たる本領を発揮して、実質の事に骨折つて戴きたいものだと思ふ。それも、病弱であるとか、甚しく頽齢に入つたとかいふのならば致方も無い事だが、西園寺公は未だ元気を喪はれるほどの年齢でも無い。然るに芸に游ぶばかりで余裕のみの人となつてしまはれ、同公の本領を発揮して実質の事を行る為に骨を折られぬのは、全く勉強の足らぬ為であるとしか私には想へぬ。是非西園寺公にもつと勉強して本当の事に力を注いでもらひたいものである。
 芸に達した人は私の知つてる人々のうちにも大分あるが、今の三遊亭円右なぞの師匠に当る円朝も、確に其一人であるかの如くに想はれる。円朝は落語家の名人で、あの方の大家を以て目せられ人情話で売出した人だが、初めから人情話をした人では無い。若いうちは猶且芝居話のやうなものを演つたもので、高座の後背へ背景として書割様のものを懸け、その前で尺八を揮り廻してドタンバタンと身振りをしたり身構へをしたり、又衣裳の引抜なんかを演つたりなぞして、話をして居つたのだ。万事が大袈裟で、シンミリした話なんかしたもので無かつたのである。
 然し後日には名人と呼ばるるほどの者に成る人の事だから、妙な軽口みたやうな落語だとか或は大袈裟な芝居懸つた真似なんかし無くつても、何とかシンミリと素話丈けで聴衆を感動させ、泣かせたり笑はせたりして、之によつて因果応報の道理を覚らせ、勧善懲悪の道を心得させるやうにする工夫は無いものかと考へ、遂に人情話といふものを発明し、素話を演ることにしたのである。それが大変に時世の嗜好に投じ、ウケるやうになり、名人の誉れを揚げるまでになつたのだ。
 一体自分で発明した新しい事により、世間の人を「成る程!」と感服させ得る人には、何処か他人の及ばざる優れた長処のあるものだ。円朝がその発明した新しい話方によつて落語界に一新紀元を劃し、然も世間の人々を感服さして聴かせる事の出来たのは、円朝に他の落語家の持つて居らぬ優れた豪い処があつたからだ。今日でも円朝一門の弟子等が演ずる「安中草三郎」とか「牡丹灯籠」とか、或は又「塩原多助」とか云ふ人情話はみな円朝が自分で作つて話したものである。畢竟、円朝は話術が旨かつたばかりで無く却〻学問もあつて文事に長け、能く読書して居つたので、あんな纏まつた長い人情話を作ることが出来たのだ。私は親しく円朝と会談したことは無いが、かく学問があり、文事の趣味もあつたから、何んな立派な人とも話のできたもので、高貴の人の御前だからとて、別に臆劫れるやう事なぞは無かつたのである。この点から謂へば、円朝には本業の芸以外、なほその芸に遊び得る余裕のあつたものだと謂はねばならぬ。
 九代目市川団十郎なぞも、単に芸を職として秀れた技倆があつたのみならず、芸に游ぶ事のできた立派な人物であつたかのやうに想はれる。今日でこそ俳優は素よりいふまでも無く凡ゆる芸人が、社会一般より尊敬され、蔑視にもせられぬやうになりはしたれ、昔は爾う尊敬せられなかつたどころか、殊に俳優なんかになれば「河原者」とさへ称ばれて、穢多同様に軽んぜられ、士君子は共に齢ひするを恥辱としたほどのものだ。斯る従前の大勢を一変し、社会をして今日の如く芸人に敬意を払ひ、俳優をも尊敬するに至らしめたのは、全く九代目市川団十郎の力である。近代語で謂へば、団十郎は覚醒した人であつたのだ。
 団十郎以前の芸人が賤しめられたのは、芸人の間にも悪い風習があつたからで、俳優のみならず総じて当時の芸人はみな下品この上無く野卑猥褻が殆ど芸人の生命であるかの如き観を呈し、座敷を壊せぬやうでは未だ一人前の芸人で無いとされたほどのものである。随つて当時の俳優其他の芸人は、客に聘ばれて座敷へ現るやうなことがあれば如何にしたら座敷を壊せるだらうかと其ればかりに苦心し、野卑猥褻の談話を連発して客を可笑しがらせ、一座が興に乗つて無礼講になるのを視、自分の技倆が芸人として一人前になつたなんかと言つて誇つたものだ。
 然るに団十郎は元来が優れた人物であつたからでもあるが、自分の経験に教へられて大に覚醒し、こんなことでは永遠迄経つても俳優が世間より尊敬せらるるに至る時代が来るもので無いと考へ、これではならぬと感憤し、先づ俳優の位置を向上させ、世間より野卑劣等視せられぬやうに致さねばならぬと思ひ、第一に自ら持する事謹厳、客の前へでても野卑猥褻の談話や座興を添ゆる為のチヤランポランな話なんかする事は一切避け、総て真理のある真実の談話をする様にしたのである。
 団十郎が俳優の品位を高め、その位置を向上させようとの一念を起し、努めて自ら持すること謹厳に、苟も坐敷を壊す如き野卑猥褻がかつた言行を避くるやうにしたのは、恰度私が商人百姓の位置を高めたいものだと思つて論語に拠り商売をするやうになつたのと、其消息に於て相似た処がある。団十郎の根本思想は私の論語算盤思想と同一であつたらしく、兎に角団十郎が俳優の位置を高むるに努力した結果、今日では立派な紳士として世間一般の人々と堂々たる交際ができ、芸術家として世間より尊敬を払はるるまでにもなつたのである。
 九代目団十郎はその上文筆の嗜みもあり、之に游ぶ事ができたので一層人物を揚げ、立派な人々とも交際し得らるるやうになつたのだが九代目団十郎をして彼の如くに成らしむるには、其の家系も与つて力があらうと私は思ふのだ。いくら九代目団十郎の天品が秀れて居つても、家系が宜しく無かつたならば、九代目も或は那的までに成り得られなかつたかも計り難いのである。団十郎の祖先は素と堀越十郎といふ甲州の武士で、武田氏の滅亡後、農に帰し、それからその子孫が江戸へ出て地子総代(地主の代理者)を勤めて居つたのだが、幡谷重蔵といふものの代に至つてからその長男が俳優となり、初代団十郎と称するに至つたのである。斯んな血統であつたから、団十郎の家の代々には俳優を職として居りながらも野卑下劣に流るる如き者無く、みな俳句を詠み、文筆も相当に達者であつた上に又品行も方正で、九代目の兄に当る八代目団十郎の如きは、父母に孝行で能く弟妹を労はり、父の弟子を困窮の間にも能く面倒見てやつたといふので、奇特の趣其筋へ聞こえ、弘化二年五月八日北町奉行鍋島内匠頭より鳥目十貫文を賞与せられたほどである。この八代目団十郎は、婦女子に媚び富貴に阿る如きことをせず、俳句や絵画にも堪能で「父と恩」といふ著書さへあるほどだ。
 二代目団十郎は俳号を栢莚と称したが、これが又却〻俳句に堪能で俳人の宝井其角、画家の英一蝶、それから俳号を子葉と称した赤穂四十七士の一人なる大高源吾なぞとも初代以来別懇の間柄であつたらしく、書籍骨董等を愛し、「老の楽」「栢莚舎事録」なぞと題する日記様の著書もある。彼の有名な幕府の老女江島と山村座の俳優生島新五郎との騒ぎは、恰度二代目団十郎の時代に起つた事件だが、二代目は江島と何の関係も無かつたので、単に訊問を受けたのみで無罪放免になつたのである。然しこの事件に関係のあつたものは、生島新五郎以下夫々処刑を受け、山村座は断絶になつてしまつたから、九代目団十郎は家代々の口碑により斯んな事を耳に挟んで居つたので、如何に不品行が芸道に禍ひする処多きかを知り、旁〻一層品行を慎み、良家の娘や何かを嗾かす如き野卑下劣な事をしなかつたものと思はれる。
 四代目団十郎も一風変つた気骨の秀れた俳優だつたが、五代目団十郎は又却〻人格も高く常識にも富み、その和歌、俳句、随筆等に見るべきものが甚だ多いのである。就中「徒然草」の文章に擬へて作つた「徒然吾妻詞」の如きは、その文章も其の言ふ処も実に堂々たるもので、常識修養の為には此上も無い良教科書であると謂つても可いほどだ。七代目団十郎も俳号を白猿と称し、文筆に秀で、数冊の著書がある。こんな風で団十郎の家には代々品格の立派な文事の嗜みあるものが現れたので、九代目団十郎も其感化を受けて、自然人格も立派になり、文事の嗜みもあり、絵や書も旨く出来るやうになつたものだと私は思ふのだ。如何に九代目に人並秀れた天品があつても、団十郎の家の代々が斯んなで無ければ、迚も那的までは成れなかつたらう。
 九代目のみならず、団十郎の家の代々はみな立派な家へ出入して交際したもので、それは初め俳句や和歌を詠むといふのが原因で俳人と交際して居る中、俳句の好きな良家の隠居などと懇親になり、遂に其れが縁で麾下の家なぞへも出入するやうになり、それが九代目団十郎の時まで継続いて居つたのだが、九代目になつて維新の大変動が起り時勢が九代目の如き品格のある芸人に取つて誠に好都合になつて来たものだから、団十郎は此の機運に乗じて祖先以来の家風を愈よ発揚しその大を成すに至つたのである。
 九代目団十郎とは私も親しく会つて談話をしたこともあるが、決して従前の芸人が得意にした如き座敷を壊すやうな野卑下劣な話なぞせず、芸道や文事、骨董なぞに就ての談話ばかりをしたもので、自宅に於てさへ至つて行儀よく、如何なる炎暑にも肌を脱がず、足を崩すとか寝転ぶとかいふ事を絶対に為なかつたほどの人だから、団十郎が客の座敷へ現れば、座敷が壊れるどころか却つて引締まり、今まで客同志だけのうちは胡坐をかいて居つても、団十郎の姿が座に見えればチヤンと坐り直したほどのものである。斯く客に窮屈がられたほどゆゑ自づと尊敬せらるるやうにもなり、惹いて一般俳優の位置を高める事になつたのである。勿論時勢の変化にも因るのだが、この点に於て九代目団十郎の功績は甚大なるものであると謂はねばならぬ。
 その職業の如何を問はず、総じて秀れた人物は何か新しい発明をするもので、円朝の如きも人情話によつて従来の落語界に一新紀元を開いたが、九代目団十郎も亦従前の歌舞伎劇演出法に一大変革を与へ、一新紀元を劃したのである。恰度私が、合本組織の株式会社を起し、これによつて産業の振興を計り、国富を増大せんとしたのと同じ消息で、這裡に多少の新発明がある。為に団十郎以前の芝居と団十郎以後の芝居との間には、仮令旧派と新派ほどの相違が無いにしても、著しい距離があるのである。
 元来、歌舞伎芝居の起原は人形芝居にある。人形振の真似をして歌舞伎芝居といふものを始めたので、俳優の取つた演出法も自ら人形振となり、妙に反つてみたり口を大きく開いたりなどするやうになつたのだ。なるほど、人形が人間の真似をする時には、人形は人間の如く自在な表情をする事ができぬから、自然と那な妙な身振になつて、所謂人形振を演ぜねばならぬのも当然だが、人間が役者になり、人間の為る事を演ずるやうになつてからまでも、人形の真似をせねばならぬといふ筈は無い――人間の役者は須らく人間の為る通りに演べきもので、人形の真似をする必要は無いでは無いかと、所謂活歴風の演出法を案出し、惹いて一般の演劇演出法に一大変動を齎らすに至つた者は実に九代目団十郎である。木偶が人間の真似をしようとして夫れができぬ為所謂人形振となるのは止むを得んことだが、人間がアベコベに木偶の真似を演じ、これを芝居であるかの如く心得てるのは実に愚の極だといふのが九代目団十郎の意見で、この意見が一般にも行はれ、今日の芝居には、団十郎以前のものの如く、妙に反つたり、口を大きく開いたりするやうな事が余り無くなつてしまつたのである。然し、大阪には充分団十郎の感化が行き渡つて居らぬので、今日でも大阪から来る俳優のうちには、猶ほ人形振がかつた演出法を依然墨守し、妙に反つたり、口を大きく開いたりする者が無いでも無い。斯くして団十郎の力により、当今の演劇は人形振がかつた処が無くなりはしたものの、又「矢の根」とか「暫」とか「助六」とかいふ種類のものは型の芸術で、その型に美しい処があるといふので、これは之れで保存することにしたのだが、新派の如くに時代を変へず、時代を旧来の儘にして置き、人形の型で演つて来た演劇を、僅に声を高くするぐらゐの処で総て人間の型で行くやうにしたのが、団十郎の新発明である。然し、演劇を写実風にしたいとの考は、九代目団十郎の実父たる七代目団十郎にも既にあつたものらしく想へる。七代目が実物の甲冑を舞台で用いたといふので江戸追放の命を受けたのも、実に之が為だ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.239-245
底本の記事タイトル:二五六 竜門雑誌 第三五九号 大正七年四月 : 実験論語処世談(卅四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第359号(竜門社, 1918.04)
初出誌:『実業之世界』第15巻第2,3号(実業之世界社, 1918.01.15,02.01)