デジタル版「実験論語処世談」(34) / 渋沢栄一

3. 秀吉は芸に游び過ぐ

ひでよしはげいにあそびすぐ

(34)-3

 太閤秀吉は古今独歩の豪傑で、才智もあり技能もあり、又胆力もあつた上になほ綽々たる余裕があり、如何なる方面から観察しても非凡の人物たるに相違無いが、従来談話したうちにも屡〻申述べて置いた如く、最後の甚だ振はなかつた人である。之には色々の原因もあらうが、晩年に及び秀吉の秀吉たる本領を発揮する事の方が御留守になつて、綽々たる余裕の方ばかりを発揮し、芸に游ぶのが主となり、勉強を中途で廃めてしまつたからだ。秀吉も信長が本能寺で光秀に弑せられた頃には随分勉強したものであつたが、晩年になつては、淀君、秀頼の愛に溺れたり、北野に茶の湯を催したり、聚楽第の土木を起して主上の行幸を仰いだり、什麽も芸に游ぶ方に意を注いで、秀吉の秀吉たる本領を発揮する方を等閑にしたかの観がある。朝鮮征伐を中途で見合せ渡鮮中の諸将に帰国を命じた事なぞも、秀吉の健康が弱くなつた為であるとばかりは謂へぬ。猶且若い時のやうに勉強する気が無くなつてしまつたからだ。それが原因で、秀吉は其晩年を全うし得なかつたのである。
 秀吉に反し徳川家康は、死ぬまで勉強を廃めず一生涯勉強して暮らした人で、その病篤く命旦夕に迫るまでになつても猶ほ、国事を憂ひ諸侯を病床に招き、「我れ死して秀忠に若し失敗あらば、侯伯の其器に当る者代つて天下の権を取るべし。天下は一人の天下に非ず」などと遺言したところは、如何に家康が勉強の人であるかを窺ひ知り得られる。斯く家康は死ぬまで勉強であつたから、秀吉の如く晩年を汚さず、有終の美を済して瞑目することが出来たのだ。勉強して暮らさねば、秀吉の如き豪傑でもその最後が芳しく無いものである。
 西園寺公の如く聡明で目先途の見える方から、私の如く冗らぬ事にまで勉強し齷齪ばかりして忙しく其日を送つてをる者を観られたら、如何にも馬鹿な人間のやうになつて見えるやも知れぬが、又私から西園寺公を観れば、同公は如何にも勉強の足らぬ人になつて見え、什麽しても猶勉強し、西園寺公の西園寺公たる本領を発揮して、実質の事に骨折つて戴きたいものだと思ふ。それも、病弱であるとか、甚しく頽齢に入つたとかいふのならば致方も無い事だが、西園寺公は未だ元気を喪はれるほどの年齢でも無い。然るに芸に游ぶばかりで余裕のみの人となつてしまはれ、同公の本領を発揮して実質の事を行る為に骨を折られぬのは、全く勉強の足らぬ為であるとしか私には想へぬ。是非西園寺公にもつと勉強して本当の事に力を注いでもらひたいものである。

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豊臣秀吉, , 游び過ぐ
デジタル版「実験論語処世談」(34) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.239-245
底本の記事タイトル:二五六 竜門雑誌 第三五九号 大正七年四月 : 実験論語処世談(卅四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第359号(竜門社, 1918.04)
初出誌:『実業之世界』第15巻第2,3号(実業之世界社, 1918.01.15,02.01)