デジタル版「実験論語処世談」(34) / 渋沢栄一

2. 西園寺公は余裕ばかり

さいおんじこうはよゆうばかり

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 なほ生きて居られる方に対して彼是と批評を加へるのは甚だ以て恐縮の次第であるが、西園寺公望公は之を伊藤博文公に比較すれば政治に囚はるるやうな傾向無く、綽々として余裕のある芸に游ぶ仁だと謂ひ得られる。この点に於ては或は伊藤公に優つた処があるとも評し得られぬでも無いが、さてただ一つ困るのは、西園寺公が芸に游ぶ方ばかりを我々に見せて下さるのみで、西園寺公として持つて居られる西園寺公の西園寺公たる本領を国家の為に発揮して下さらぬ事である。
 一体、何の某には綽々として余裕があるからとて世間が賞めもし又感服もするのは、その人の本領以外に、猶ほ芸に游ぶ余裕があるからの事だ。ただ芸に游ぶのみが能で本領の無い人であつたとしたら、敢て賞むるにも感服するにも及ばぬのである。成る程、西園寺公は芸のある方で、書も旨く詩文にも達者、又俳句なぞも詠まれ、琵琶までも弾ぜらるるとの事だが、失礼ながら西園寺公ぐらゐの書の人や詩文に達者なものは敢て西園寺公を俟たなくつても世間に幾干もある。西園寺公の俳句だからとて、琵琶だからとて、そんなに賞めねばならぬほどのものでは無いだらう。西園寺公にして若し西園寺公たる本領を永久に発揮せられず、ただ少し書が旨いとか詩文に堪能だとか、俳句を詠むとか、琵琶を弾かれるとかいふ丈けで他に何も真実の処が無いとしたら、西園寺公を称して綽々たる余裕のある仁だとは言ひ得られ無くなる。然るに西園寺公昨今の模様を拝見するに、綽々として余裕があるには相違無いが、余裕が有り過ぎて綽々たる余裕ばかりとなり、何んだか西園寺公の本領が少しも発揮せられて居らぬやうに想はれてならぬ。如何に人は芸に游べる丈けの余裕が無ければならぬものだからとて、西園寺公のやうに満身悉く是れ余裕で、芸に游ぶ方ばかりになつてしまはれても困る。私は西園寺公にもつと本気になつて実質の事を行つて、公の本領を発揮して頂きたいのである。西園寺公は如何にも豪い方でも、昨今のやうでは毫も豪い処が無いのと同じ事になつてしまふではないか。
 一言にして謂へば、恐れ多い申分だが、西園寺公は私から観れば甚だ勉強の足らぬ方である。西園寺公は元来非常に優れた才のあらせらるる仁で、聡明無比、先途の能く見え透く方であられらるから、世の中の事は如何に勉強して見たところで大した効果を挙げらるるわけのもので無く、殊に政治の事などになればその傾が甚しく、自分の力一つで天下の大勢を動かし得られもせず、成る通りにしか成らぬものである事を明かに理解して居られるので、如何ほど勉強しても結局落着くところは何処であるかをチヤンと予め知つて居らるるものだから、冗々しくて迚も勉強する気に成りなされぬだらうが、世の中の事は爾う西園寺公のやうにタカをくくつて高踏されるばかりでも困る。

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キーワード
西園寺公望, 余裕
デジタル版「実験論語処世談」(34) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.239-245
底本の記事タイトル:二五六 竜門雑誌 第三五九号 大正七年四月 : 実験論語処世談(卅四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第359号(竜門社, 1918.04)
初出誌:『実業之世界』第15巻第2,3号(実業之世界社, 1918.01.15,02.01)