デジタル版「実験論語処世談」(56) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.467-471

 論語の順序から申せば、今度は郷党篇に移るのでありますが、前回にも申述べたやうに、郷党篇は私の述べる実験論語としては余り適例がありませぬから、之を省いて次の先進篇に移ります。尤も郷党篇は孔子平日の言行挙動を詳かに記したるものであつて、前の諸篇に於て孔夫子の言論を聴き、而して此の篇を読めば、容貌挙動髣髴として目前にあるが如く、親しく聖人に接して其の教へを受くるの思ひがあるのであります。されば学者としては之れを講義する事は勿論必要なのでありますが、元来私の実験論語処世談は、現代の人々が直ちに実行し得らるる事柄、否実行すべき教訓に就て私自身の実際に経験した事や、又親しく見聞した事抔に基いて御話するのでありますから、郷党篇は此の点から見て余り必要でないやうに思ひます。先進篇に入るに当つて一応之れを御断りを致して置きます。
子曰。先進於礼楽。野人也。後進於礼楽。君子也。如用之。則吾従先進。【先進第十一】
(子曰く。先進の礼楽に於けるは野人なり。後進の礼楽に於けるはは君子なり、如し之を用ふれば、即ち吾は先進に従はん。)
 周の時代は文学が頗る盛んであつたから、周末には礼楽が徒らに形式に流れると云ふ嫌ひがあつた。即ち昔の礼楽は質朴にして文飾足らず、恰かも田舎人の如きものであつた。然るに孔子の時代に至りては文飾余りありて外観の美なること殆んど比較にならぬ程であつたが、之と共に誠実の意を欠き、所謂其の質に於て遥かに劣る処あつた。元来礼楽は質に重きを置く可きもので、文飾は従であるにも拘らず、徒らに形式に趨つて本を失して居るので、孔子は精神的方面を尊まれて此の言があるのである。
 礼楽とは違ふが、明治の初年に於ては法律、規則等は甚だ雑駁にして、元より我が国古来のものではなく、さればと言つて支那ともつかず、西洋ともつかず、或は之れを折衷し、或は直訳的に之を鵜呑みにしたものであつた。之れに反して今日に於ては大に諸般の施設の進歩せると共に、法律、規則等は面目を一新して先づ具備して居るとは言ひ得る。然らば精神的方面はどうであるかといふに、甚だ形式的の事は整うて居るけれども、精神的方面に至りては寧ろ銷磨して居ると言ひ得ると思ふ。此所が是非の分れる処であつて、啻に礼楽と言はず法度と言はず、総てが用ひる人の心を深く用ふ可きであると思ふ。
 今日は、総ての法度が能く具備して居るが、質の方面、即ち精神に至つては寧ろ維新当時に劣りはすまいか。維新当時は総ての文物制度が今日より見れば殆んど隔世の感がある程整はなかつたのであるが、精神が確かりして居つて献身的であつたから、却つて宜しかつたやうに思ふ。之れに比較すると、今は形式は整つて居るけれどもヌケ殻の様な感がある。孔子の言、深く味ふ可きではあるまいか。
子曰。従我於陳蔡者。皆不及門也。徳行。顔淵。閔子騫。冉伯牛。仲弓。言語。宰我。子貢。政事。冉有。季路。文学。子游。子夏。【先進第十一】
(子曰く。我に陳蔡に従ふ者は、皆門に及ばざるなり。徳行には顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語には宰我、子貢。政事には冉有、季路。文学には子游、子夏。)
 此の章に挙げられた人々は所謂孔門の十哲と云つて、一般世人には孔子門下の優れたる高弟と言はれてゐるが、成程優れた門弟ではあつたが、必ずしも代表的人物とは言ひ得ない。現に孔子の門には十哲の外に曾子を始めとして有名な門弟が居るのである。
 孔子、楚の国に聘せられて任に赴く事となつた時、之れを聞いた陳蔡の謀将は、孔子が楚に用ひられては陳蔡が危ぶないといふので、孔子を途中に要して之れを包囲し、糧食の途を絶つたので非常に困つたのであつた。孔子に附き従ふ人々は大いに心配し、此先どうなる事かと危ぶんでゐたのであつたが、独り孔子は此の災厄の中にあつて泰然自若として少しも動ぜず、恰も平日の如き態度を以て寝て居つたのである。即ち孔子は斯かる場合に於ても死生を眼中に置かず、悠々として其の災厄を知らざる如くであつた。斯くの如きは孔子にして始めて出来る事である。楚の国の大夫は之れを聞いて兵を随へ兵粮を持つて助けに行つたのであるが、孔子後年に至つて当時の事を追憶し、共に苦難を嘗めた門弟中の特出せる十人を挙げて、各〻其の特徴を述べられたのである。之れに就ては別に現代に当て嵌めて取り立てて言ふ程の事はない。只学ぶ可きは、死生の間に在りて少しも動ぜざる孔夫子の態度である。
子曰。回也。非助我者也。於吾言。無所不説。【先進第十一】
(子曰く。回や我を助る者に非ざるなり。吾が言に於て説ばざる所なし。)
 之れは孔子が顔回を評されたのであつて、顔回は孔子の説く所には一の質問をする事もなく、常に悦んで傾聴して居つた。能く物の分つた同士であると、質問したり、討議したりする必要がない。顔回は能く孔子の教へを理解し、曾て一度も質問した事がないから、一向頼りないやうだと言はれたのであるが、其の真意は顔回を称揚したのである。
 能く世間にある事であるが、一の意見に対して疑問の点や異つた意見を述べる事は、或場合には為めになる事もあるが、初めから是非の分つて居るものに対しては其の必要がない。今日は師弟の間柄は大に昔と変つて来て居るが、竜門社の社員などには或は顔回のやうな人もあるかも知れぬが、概して古い説といへば善い事も悪い事も玉石混淆して、駁撃討論百出、殆んど其の帰する処を知らぬ有様である。之れ果して喜ぶ可きものであるか否か、私が孔子ならば顔回のやうな人が欲しいと思ふ。
子曰。孝哉閔子騫。人不間於其父母昆弟之言。【先進第十一】
(子曰く。孝なる哉閔子騫。人其の父母昆弟の言に間せず。)
 閔子騫は二十四孝に出てゐる一人で至つて孝道の深い人であつた。孔子も論語に於て「禹は我れ間然する処なし」と言つて居られるが、此の章は即ち閔子騫の純潔なる孝行を褒められたのであつて、普通の人であれば其の父母や兄弟が、アレは孝行者だと褒めると、何となく嫌気がするものであるが、閔子騫に至つては決してさういふ感じが起らないと云はれたのである。
 近頃、此の孝行といふ事に就ては、之れを説くに仲々難かしい、忠孝とか、孝悌とか、何れも其の精神に於ては昔とは異らぬけれども、時勢の進歩と世の変遷に連れて其の形式上に現はれる処は大に違つて来た。されば今日昔の儘のやうな孝を説くのは間違つてゐる。孝経にも、身を致し、家を納め、父母の意を安んずるのが孝の基であると教へ、又父母の在す間は其許を離れず孝養を尽すべきものとされて居つた。然し今日は、其家族的関係に於て、社会的推移に於て、大に事情を異にして居るのであるから、従て孝に対する解釈も違つて来なければならぬ訳である。
 私は、子が親に孝行を尽すといふ事は、素より子供自身の心掛にある事であるが、或場合に於ては、親が子供に孝行をさせるのも親の心掛にあると言はなければならぬと思ふ。
 例へば親のする事を模範として我が子が行うてよい場合もあるけれども、然し家道の変化、時勢の推移等がある故、我と同じ道を踏ませようとする事は時代を知らぬものである。若し普通の窮屈な解釈をすれば、子は其の為めに拘束されて自分の特色を十分発揮する事が出来なくなるし、若し自分の天分を発揮しようとすれば、或場合には不孝の子とならなければならない。されば非凡の人があつて此の問題に打つかるとすれば仲々難かしくなる。
 かういふ場合に就ては論語には余り説いていないが、時勢の推移に就て、孝を説く人も、人の親も大に考へなければならぬ事であつて、私は孝を尽すべき子は勿論、尽さする親に対しても、此点に就ては大に反省を促したいと思ふ。
 前回に於て孝といふ事に就て少しく述べたが、引続き孝に就て御話をしようと思ふ。之れに関して、私自身が実際の経験を有して居り、多少参考となるだらうと思ふから其の実際談を申し上げる。私の家は元来農を営んで居つたので、私も少年の時代は父の業を手伝つて農業と藍の商売に従つて居つたのであるが、其後大に感ずる処あつて発奮し、親の膝下を辞して江戸に出たのであつた。勿論私の出京に就ては親も反対であり、親戚にも反対者があつたのであるから、私の出京は謂はば親の意思に反したのである。之れを昔の教への通りに、「父母在す間は其の膝下を離れず孝養を尽すべきものである」といふ見地から見れば、大に不孝の子たるを免れぬ。又「身を致し家を納め、父母の意を安ずるのが孝の基である」といふ孝経の訓へに従つたならば、私は当然親の意思に従つて郷里に止まり家業に従事すべきであつた。然し血気盛りの私には到底、燃ゆるが如き希望と計画とを放擲して家居する事は出来ない相談であつた。此の場合に於て若し杓子定規の道学者の解釈に従へば、私は勢ひ不孝の子たらざるを得なかつたのである。然し幸ひにして私は、理解ある父に依つて不孝の子たらずして済んだ。それは即ち孝に対する新しい解釈の仕方をされたからである。
 父は私の志のどうしても翻へすべからざるを看取して、一日私を其の居間に招いた。そして言ふには、人には各〻備つた才能があり、異つた性分がある。其の性分の最も好む処に向つて進むのが天分を発揮する所以である。さればお前を手離し度くないけれども、お前の決心も一概に悪いと言ふ事も出来ない。それを強ひて止めるとお前は出奔しても望みを遂げようとするであらう。さうすれば不孝の子となる。就ては、お前の身体はお前の自由にするから、望み通り出京するがよい。詰り親が不孝の子とさせまいと思ふ為であつて、言ひ換ふれば親が子に孝行をさせるのであるといつて笑つて私の出京を許されたのであつた。
 かうした父の理解に依つて、私は敢て孝行とは言はぬけれども、少くも不孝の子たらずして済んだ。そして私が世の中に出て相当に世間にも認められ、又多少とも我が実業界の発達の為めに貢献する事の出来たのは父に負ふ処が多い。若し私の青年時代に於て、強ひて父が私の身体の自由を束縛したならば、或は今日の渋沢がなかつたかも知れない。
 私の此の事例に就て、世間の親たり、子たる人々の一考を煩はしたい。言ふ迄もなく今は時勢が昔と変つてゐる。されば忠孝にしろ、孝悌にしろ、其の精神に於ては依然として昔と変らぬけれども、形式に現はれる処は大に違つて来た事を深く考へなければならない。今日でも屡々耳にする処であるが、世間には、子供は総て親の意の通りにしなければならぬ様に思つて居る人が尠くないやうである。子として親の意志に反するのは宜しくない事であるけれども、道学者風の解釈に律せられては、勢ひ進退両難の苦しい立場に立たなければならない。夫れが為め充分に天分を発揮する事を出来ずに、一生を終らなければならぬ様な事にならぬとも限らぬのである。されば子として親に孝行を尽すといふ事は、何時の時代でも変らぬ事であり、又、我国の他に誇る可き美風であるが、人の親たる者も、時勢の推移、世の変遷を考へて旧道徳に捉はれず、子供の自由を束縛せずして、充分に其の天分を発揮せしめる様に心掛けなければならぬと思ふ。換言すれば、親が子をして孝子たらしむる様に仕向けるといふ事も、大に必要な事と考へるのである。
南容三復白圭。孔子以其兄之子妻之。【先進第十一】
(南容三び白圭を復す。孔子其兄の子を以て之に妻す。)
 詩経の大雅、抑の篇に「白圭之玷、尚磨也。斯言之玷、不可為也」の詩がある。此の詩は文字の如く「白圭(白い玉)の欠け損じたのは磨けば其の瑕を除く事が出来るであらう。然し言葉の欠損、即ち失言に至つては、如何にも復た之れを除く事が出来ない」といふ意味である。南容は非常に謹厳な人であつたが、言語を慎しまんが為めに、常に白圭の詩を再三反復して之れを打ち誦して居た。孔夫子が之を聞いて南容の人為を愛し、兄たる人の女を以て南容に妻はされたといふのが此の章句の大意である。
 按ずるに今の世の多くの人は、此の言語に就ては甚だしく慎みを欠いてゐる様に思はれる。殊に一の宝を得る為に百の嘘言を言つて平気で居る者がある。中には巧みに嘘を言つて他人を謀り、寧ろ夫れを自慢にしてゐる人もあるが、誠に慨しい風潮と言はなければならない。一体人間は嘘言を以て一時の利益を得る事があつても、夫れは決して正しい道でない許りでなく、末始終満足せらる可きものではない。朋友の交りも之れが為めに破れ、多年の信用も之れが為めに失ふに至るであらう。物質的、利己的方面にのみ傾きつつある現代人に対して、私は切に反省を促し、精神的方面に顧る処あらん事を切望する。
季康子問。弟子孰為好学。孔子対曰。有顔回[者]好学。不幸短命死矣。今也則亡。【先進第十一】
(季康子問ふ。弟子孰れか学を好むと為すやと。孔子対へて曰く、顔回なる者有り学を好む。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。)
 此の問答は既に前の篇にも出て居るから重複になつて居るが、只前は哀公の問にして、茲には季康の問となつて居り、答語も前者には詳かであつて、後者には比較的簡明に述べてある。蓋し本章は、顔回の学を好むを称められたのであつて、併せて其の短命に終つたのを惜しまれたのである。顔回の事に就ては前にも屡〻述べた事があるが、平生力を根本に用ひ、徳行を以て学とし務めて私心に克つといふ、真に学を好むの人であつた。事の怒る可きに遇へば之れを怒るも、程度を越えて他に怒を移すことなく、又時として過失なきに非ざるも、一度過ちたる事は之れを改めて再び過つことがなかつた。真に学を好む効験は実に斯くの如くであつたのである。
 今は昔と異つて文化の程度が非常に発達して居り、立派な学者も沢山居る。けれども一般に学問は学問、行ひは行ひといふ風に其の学んだ処と行ふ処とが違つて居る様に思ふ。殊に徳行といふ点に就て欠くる処が多い様である。所謂一般に余りに利己主義に奔り過ぎてゐる。之では真の学問といふ事は出来ない。謂はば死学問である。前章でも言つた通り、一つの宝を得る為めに平気で百の嘘を言ふ様な人の尠くないのは誠に遺憾であると思ふ。私は此の機会に於て真の学問、生きた学問をされん事をお奨めする。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.467-471
底本の記事タイトル:三三一 竜門雑誌 第四〇八号 大正一一年五月 : 実験論語処世談(第五十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第408号(竜門社, 1922.05)
初出誌:『実業之世界』第18巻第8,9号(実業之世界社, 1921.08,09)