デジタル版「実験論語処世談」(56) / 渋沢栄一

4. 孝に対する解釈

こうにたいするかいしゃく

(56)-4

子曰。孝哉閔子騫。人不間於其父母昆弟之言。【先進第十一】
(子曰く。孝なる哉閔子騫。人其の父母昆弟の言に間せず。)
 閔子騫は二十四孝に出てゐる一人で至つて孝道の深い人であつた。孔子も論語に於て「禹は我れ間然する処なし」と言つて居られるが、此の章は即ち閔子騫の純潔なる孝行を褒められたのであつて、普通の人であれば其の父母や兄弟が、アレは孝行者だと褒めると、何となく嫌気がするものであるが、閔子騫に至つては決してさういふ感じが起らないと云はれたのである。
 近頃、此の孝行といふ事に就ては、之れを説くに仲々難かしい、忠孝とか、孝悌とか、何れも其の精神に於ては昔とは異らぬけれども、時勢の進歩と世の変遷に連れて其の形式上に現はれる処は大に違つて来た。されば今日昔の儘のやうな孝を説くのは間違つてゐる。孝経にも、身を致し、家を納め、父母の意を安んずるのが孝の基であると教へ、又父母の在す間は其許を離れず孝養を尽すべきものとされて居つた。然し今日は、其家族的関係に於て、社会的推移に於て、大に事情を異にして居るのであるから、従て孝に対する解釈も違つて来なければならぬ訳である。
 私は、子が親に孝行を尽すといふ事は、素より子供自身の心掛にある事であるが、或場合に於ては、親が子供に孝行をさせるのも親の心掛にあると言はなければならぬと思ふ。
 例へば親のする事を模範として我が子が行うてよい場合もあるけれども、然し家道の変化、時勢の推移等がある故、我と同じ道を踏ませようとする事は時代を知らぬものである。若し普通の窮屈な解釈をすれば、子は其の為めに拘束されて自分の特色を十分発揮する事が出来なくなるし、若し自分の天分を発揮しようとすれば、或場合には不孝の子とならなければならない。されば非凡の人があつて此の問題に打つかるとすれば仲々難かしくなる。
 かういふ場合に就ては論語には余り説いていないが、時勢の推移に就て、孝を説く人も、人の親も大に考へなければならぬ事であつて、私は孝を尽すべき子は勿論、尽さする親に対しても、此点に就ては大に反省を促したいと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(56) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.467-471
底本の記事タイトル:三三一 竜門雑誌 第四〇八号 大正一一年五月 : 実験論語処世談(第五十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第408号(竜門社, 1922.05)
初出誌:『実業之世界』第18巻第8,9号(実業之世界社, 1921.08,09)