デジタル版「実験論語処世談」(56) / 渋沢栄一

6. 旧道徳にのみ捉はるる勿れ

きゅうどうとくにのみとらわるるなかれ

(56)-6

 かうした父の理解に依つて、私は敢て孝行とは言はぬけれども、少くも不孝の子たらずして済んだ。そして私が世の中に出て相当に世間にも認められ、又多少とも我が実業界の発達の為めに貢献する事の出来たのは父に負ふ処が多い。若し私の青年時代に於て、強ひて父が私の身体の自由を束縛したならば、或は今日の渋沢がなかつたかも知れない。
 私の此の事例に就て、世間の親たり、子たる人々の一考を煩はしたい。言ふ迄もなく今は時勢が昔と変つてゐる。されば忠孝にしろ、孝悌にしろ、其の精神に於ては依然として昔と変らぬけれども、形式に現はれる処は大に違つて来た事を深く考へなければならない。今日でも屡々耳にする処であるが、世間には、子供は総て親の意の通りにしなければならぬ様に思つて居る人が尠くないやうである。子として親の意志に反するのは宜しくない事であるけれども、道学者風の解釈に律せられては、勢ひ進退両難の苦しい立場に立たなければならない。夫れが為め充分に天分を発揮する事を出来ずに、一生を終らなければならぬ様な事にならぬとも限らぬのである。されば子として親に孝行を尽すといふ事は、何時の時代でも変らぬ事であり、又、我国の他に誇る可き美風であるが、人の親たる者も、時勢の推移、世の変遷を考へて旧道徳に捉はれず、子供の自由を束縛せずして、充分に其の天分を発揮せしめる様に心掛けなければならぬと思ふ。換言すれば、親が子をして孝子たらしむる様に仕向けるといふ事も、大に必要な事と考へるのである。

全文ページで読む

キーワード
道徳, , 捉はる, 勿れ
デジタル版「実験論語処世談」(56) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.467-471
底本の記事タイトル:三三一 竜門雑誌 第四〇八号 大正一一年五月 : 実験論語処世談(第五十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第408号(竜門社, 1922.05)
初出誌:『実業之世界』第18巻第8,9号(実業之世界社, 1921.08,09)