デジタル版「実験論語処世談」[26a](補遺) / 渋沢栄一

実験論語処世談 第四十九[四十八]回 岩崎弥太郎と古河市兵衛
『実業之世界』第14巻第11号(実業之世界社, 1917.06.01)p.70-73

 三菱の先代岩崎弥太郎は、多人数の共同出資によつて事業を経営する事に反対した人である。多人数寄り集つて仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、成績の挙がるもので無いといふのが弥太郎の意見で、何んでも事業は自分一人でドシドシ経営てゆくに限るといふ主義であつた。随つて私の主張する合本組織の経営法には極力反対したものだが、それ丈け又、人才を部下に網羅する事には劫々骨を折り、学問のある人を多く用ひたものである。これが、弥太郎の人才を登庸するに当つての一特徴であつたかの如く思はれる。
 私は、弥太郎の何んでも自分が独りだけでやるといふ主義に反対であつたものだから、自然と万事に意見が合はなかつたのであるが、明治六年に私が官途を廃めてから、弥太郎は私とも交際して置きたいとの事で、松浦といふ人が紹介し、態々当時私の居住して居つた兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事も無かつたが、それ以来交際するやうになつたのだ。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違ひ、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があつたので、遂に其れが原因になり、明治十二三年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至つたのである。これは、明治十三年に至り、私や益田孝等が主唱し、伏木の藤井熊三、新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六などを糾合し、海軍大佐遠藤秀行を社長とする東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張つて見せ、次で明治十五年に至り、当時の農商務大輔品川弥二郎さんが三菱の海運界に於ける専横を押さへんとして目論んだ共同運輸会社の設立に参劃し、三菱会社に挑戦したからである。
 それでも私は個人として別に弥太郎を憎く思つてたのでも何んでも無いのだが、善い事につけ悪るい事につけ、始終私の友達であつた、益田孝、大倉喜八郎[、]渋沢喜作などが共に猛烈な岩崎反対家で、岩崎は何んでも利益を自分一人で壟断しやうとするから怪しからんと意気巻いて騒ぎ立て、甚く弥太郎を憎がつてたものだから、私を其の仲間の棟梁ででもあるかの如くに思ひ違へ、弥太郎は非常に私を憎んでたものである。その結果は私と弥太郎とは明治十三年以来、全く離ればなれになつて終ひ、遂に仲直りもせず、弥太郎は十八年に五十二歳を一期として死んで終つたのである。
 弥太郎は斯くして、私との間に仲直りの能きなかつたうちに歿してしまつたのだが、其後三菱会社と共同運輸会社との競争は益々猛烈となり、そのまゝに推移すれば両社とも共倒になつてしまひ、外国汽船会社に乗ぜらるるより外無きまでに立到つたので、政府も両社の間を調停するに決し、私も亦両社を合併することに骨を折り、弥太郎が歿してから間も無い明治十八年九月に両社の合併を見、今日の日本郵船会社が設立せらるゝ事になつたのである。それ以来私と岩崎家との間の確執も解け、弥太郎の弟に当る弥之助男とは私も親密に交際するやうになつたのみならず、岩崎家の重鎮であつた川田小一郎とも親しく交際するに至つたのであるが、それに就ては、面白い一条の物語がある。
 当時、益田だとか大倉だとか、私共友人の間に、毎年正月二日に新年宴会を開く慣例があつたが、郵船会社が設立された翌年の明治十九年正月二日の晩にも、例によつて斯の新年宴会を、日本橋浜町の常盤に開いて居ると、川田が飄然りやつて来て私に面会を求め、三菱と共同運輸と既に合併して日本郵船の設立を見るに至つた今日、お互に懸け隔てをして居るのは面白く無い事だから、弥之助も是非貴下に遇つて意志の疏通を謀りたいと言つてること故、遇ふやうにしてくれぬかとの事であつたので私も快く会見を承諾し、越えて数日、私は益田、大倉及び喜作と一緒に、駿河台の弥之助男邸を訪ひ、男及び三菱の勇将連と驩談し、之によつてお互に従来の不快なる感情を一掃し、爾来私も岩崎家と懇意に致すやうになつたのである。
 さう斯うして居るうちに、明治廿六年に至り、川田小一郎が又私の宅へ突然訪ねて来て「三菱と共同運輸とが合併して日本郵船になつた今日でも、まだ世間では郵船会社を岩崎一家の事業のやうに思つてゐて、甚だ不本意の至りであるから是非同社の重役になつてくれ」との依頼であつたのである。翌日又弥之助男までが態々私の宅へ来られて、同一の事を申出でられたので、私も国家の為め、是処が一ト肌脱ぐべきところであらうと考へ、即時に弥之助男の請ひを容れ、日本郵船会社の取締役となる事にしたのだが、是れが郵船会社へ私の関係するに至つた端緒である。恰度その翌年が日清戦争になつたのだが戦争終了後多少私も同社の為に尽くし海外諸航路の拡張、新船の建造等を劃し、同社をして之を実行せしむる事にしたのである。
 古河市兵衛は、元来学問の無い無学の人であつたから、余り高い見識の無かつたもので、何事を観るにも、低い立場に立つて観るを例とし、官尊民卑の思想が性根に浸み込んで、死ぬまで官尊民卑の思想が抜けきらず、官吏に対しては御辞儀ばかりして暮してたものである。この点は私なぞと大に所見を異にしたものだが、珍らしく正直で誠実なところのあつた人だから、部下にも、孝悌の心の厚い人々を寄せ集めて使用つたものである。今日でも猶ほ古河家に残つている者は、皆な孝悌の心の厚い正直な人々で、勝手気儘に無茶苦茶な事をするやうな者は一人も無い。これ等の人々とは、私も今以て猶ほ引続き交際して居る。
 私と古河市兵衛とが相知るに至つたのは、明治七年頃からで、当時私は第一国立銀行を経営して居つたのだが、古河は第一銀行の大株主であつた小野組の米穀部と鉱山部とを支配し、その番頭を勤めて居つたのである。
 然るに、小野組は余りに事業を拡張し過ぎた結果、明治七年に突然破産してしまつたのものだから小野組に百数十万円を貸して居つた第一銀行は、為に非常な影響を受けて、大損害を蒙らんとしたのである。殊に、米穀部及び鉱山部に対しては、私が古河を信ずるの余り、無抵当で巨額の資金を貸付てあつたので、若し古河が少し不正直な人間で、幸ひ抵当を銀行に提供して居らぬのを奇貨措くべしとし、総て履み倒されでもしてしまつたら、第一銀行も亦、小野組と一緒に倒れて終はねばならなかつたのだが、そこは古河が正直な人間であつたものだから、小野組の各倉庫に当時現存せる米穀全部及び小野組所有の鉱山悉くを挙げて第一銀行に提供し、些も隠匿するやうな事をしなかつたのである。これによつて第一銀行は毫も損害を蒙らず、幸に無事なるを得たが、小野組の破産した時に古河は、自分の給料も多年拮据して溜めた貯金も、総て皆な之を主家の負債償却資金のうちに繰り入れ、一銭一厘も私するやうな事無く、一枚の着換さへ無き着の身着のまゝで主家と別れて出たものだ。是処が古河の豪らかつたところで、又私も其処を見込んで古河を信用し、無抵当で巨額の資金を融通したのである。古河は私が同人を信用して無抵当で貸付けたのを奇貨にし、第一銀行に迷惑を懸けるやうな不始末をしては、恩に酬ゆるに讐を以てするものであるからとて、斯く自分の貯金までも一厘残らず投げ出して、第一銀行に対する負債を償却したのである。
 明治七年褌一貫で小野組を出た古河は、其後杳として消息を絶つて居つたが、約二年ばかり経つてからの明治九年頃、一日飄然私のところへ訪ねて来て、北海道で鉱山業を経営てみたいから、資本を五万円ばかり貸してくれとの事であつたのである。私は古河を深く信じて居つたものだから、当時の五万円は昨今と違ひ、可なりの大金であつたが快く貸与し、古河は之によつて多少の利益を挙げ、更に足尾銅山を経営したいといふので、古河と相馬と私との等分出資により、明治十二年十万円の合資会社を組織し、足尾銅山を古河にやらせることにしたのである。然るに、明治廿四年に到り、古河は単独で経営したいからと申し出で、私とても営利の為に出資したわけで無く唯古河を助けたい為に出資したのであるから悦んで其の申出でに同意し、爾来足尾銅山は古河一家の経営に移り、以て今日に至つたのだが、古河は鉱山の事に関し殆んど神の如き智能があつて、その観るところに些かも過誤の無かつたものだ。曾つて、私は古河に案内されて、足尾銅山の坑の中を検分した事がある。その時に古河は職工の着るやうな衣物を着て私の先頭に立ち、鉱脈のことなぞ委細説明したが、私は素人の事とて唯聴くのみで何も解らなかつたにも拘らず、古河の鉱山に関する知識が如何にも豊富で、足尾銅山内の事ならば恰も掌を指す如く何んでも知つて居るのに驚き、坑を出てから斯の旨を古河に話すと、古河は「それは別に不思議は無い。貴下が銀行の事に詳しいのと同じで、人は皆な商売によつて賢いものです」などゝ笑つたこともある。(青柳生憶記)
底本(初出誌):『実業之世界』第14巻第11号(実業之世界社, 1917.06.01)p.70-73
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第四十九回 岩崎弥太郎と古河市兵衛 / 男爵渋沢栄一