デジタル版「実験論語処世談」(3) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.657-663

 私のやうな浅学で学問も無い者が、論語に就てのお話を致すのは如何にも烏滸がましい。又、世間の或る一部からは、渋沢は之によつて美名を売らんとしてゐるのだらうなぞと取沙汰せられぬとも限らぬが私には美名を得ん為に論語を担がうとするやうな心事は微塵も無い。又素より学識に乏しい私の事ゆゑ論語にある字句の説明や意義の解釈などで学者諸先生に追ひつかうとしても爾れは到底できぬ業である。然し私は決して空理空論を口述致しはせぬ。総て実地に行つて来て、処世上に益を得た点のみに就き申述べるのである。
 昨今は、学者先生方のうちにも、末松謙澄博士とか、或は井上哲次郎博士とか、論語の事を種々と論議せらるゝ方々も大分多くなつたやうである。これには私共の如き全く無学の素人が始終何の彼のと論語を御引合に出して談論した事も、多少与つて力あるものと信ずる。私の如き薄徳なる者と雖も絶えず論語の御話をして居れば、それが多少でも刺戟になつて、学者先生方の深遠なる御議論となり、惹いては一般世間をして孔夫子の教訓に心を寄せしむる事にもなるので、風教の為に幾分かの利益があるものと惟ふ。
 論語の章句のうちにも時代の関係から今日の世には直に其儘適用し得られぬものがある。然し、時代に関係の無い個人個人の行為に就ての教訓は、今日に於ても将た千載の後に於ても、万古変る事なく直に実行し得られるゝものである。論語を読む者は、予め其教訓中に、単に孔夫子御在世の時代に於ける時世を救ふ為に説かれたものと、人として万世に亘り守り行はねばならぬ事を説かれたものとの別があるのを心得置かねばならぬ。
 私の論語に就ての談話は空論を避け、主として孔夫子の教訓を実地に臨み如何に守り行ふべきかの工夫と、之に伴ふ実験とを申述べるのを主意とするから、私が自身で行はうとして試ても、薄徳の為実行の能きぬやうな事は、前回にも一寸附け加へて御断りして置いたやうに毫も隠し包む処無く能きぬ達せぬと申述べて憚らぬのである。然し実地に臨んで論語にある教訓を其儘実行し来つたところも亦少くないから、この点に就ての談話は、今の青年子弟諸君に多少裨益する処があらうと信ずる。
 仁に就ては、孔夫子も論語のうちに種々と説かれてあつて、処々に「仁」の文字が散見する。之を狭義に解釈すれば人に対して日々親切を尽してやるといふやうな簡単なる意味になつてしまふが、之を広義に解釈すれば、論語「雍也」篇に御弟子の子貢が「如有博施於民。而能済衆如何。可謂仁乎。」と孔夫子に御尋ねすると、「何事於仁。必也聖乎。」と答へられてあるのでも解るやうに、済民の事即ち治国平天下が仁であるといふ事になる。又、文章軌範に輯録せられてある韓退之の一文「原道」の冒頭には、「博愛之謂仁。行而宜之之謂義。由是而之焉之謂之道。」とあるほどで、道徳の大本になるものは亦仁である。仁は決して小さな私徳にのみ限らるべきものでない。公徳に於て又之を体する事にせねばならぬものである。
 孔夫子は管仲の人物に感服して居られず、論語「八佾」篇に於て、「管仲之器小哉。」と稍〻罵らるゝ如き意味を漏らされたほどで、孟子の如きは、弟子に当る公孫丑の問に応じ、「子誠斉人也。知管仲晏子而已矣。」と答へられ、汝は斉の生れで同国故両人を豪いと思ふかも知らんが、管仲や晏子は大して豪い人物で無かつたぞと諭されて居る[。]然し、管仲の社会上尽した功は孔夫子も之を没せられず、「憲問」篇に於て、「微管仲。吾其被髪左袵矣。」と、管仲が風俗改良に致した功を頌へ、「如其仁。如其仁。」と、天下を統一し風教を興した管仲の働きを仁であると賞せられて居る。之によつて見ると、治国平天下の道も亦仁の中であることが愈〻明かになる。
 孔夫子の時代は今日の如く商工業の盛んな時代で無かつたものだから、論語のうちにも、孔夫子は商工業を営むに当つての実地の方法、即ち如何にして商品は作り又売るべきものか、商業道徳とは如何なるものであるか等の細節に亘つて毫も説かれて居らぬ。然し、仁は既に道徳の大本で、人と人との相交り相接するにも、又国家を治めて天下を平かにするにも皆仁が本になるものであるとせば、実業に於ても仁が本にならねばならぬ筈である。政治にも仁が必要、各個人日常の交際にも亦仁が必要であるものなら、独り実業にのみ之が必要で無いといふ筈があるべきで無い。
 真正に仁を行はうとすれば国の政治も改善し、風俗も改良して行かねばならぬ事になるのだが、それは誰でも力を尽しさへすれば直ぐに成るといふわけのもので無い。それぞれの順序がある。然し国民が皆私徳と共に又公徳を重んじ、実業にも其意を以て当るやうにすれば、仁が自然と行はれて国家の品位を高め得る事になる。私は会社を経営するに当つても、単に其衝に当る当事者が利するのみでは可けない、勿論、当該会社の利益を謀らねばならぬが、同時に、之によつて国家の利益、即ち公益をも謀らねばならぬものと信じ、今日まで其方針で万事に処して来た積である。一に、孔夫子が論語に説かれた広義の仁を実地に行はんとするの意に外ならぬ。仁には又義の伴はねばならぬものである事は、既に前回に於て申述べ置いた通りである。
 これも「学而」篇にある句だが、什麽しても心に偽のある者は直言することの能きぬやうになるもので、他人の悪い処を見ても、之を直言せずに言を巧にし色を善くして其人に接することになる。斯くの如き巧言令色の人と雖も、勿論仁のない私徳公徳を無視する者ばかりとは限らぬ。中には仁に富んだ心の人も無いでは無からう。故に孔夫子も絶対に無いとは仰せられずに「鮮矣」と曰はれて居る。然し、大体の上から見れば、「子路」篇にも「剛毅木訥近仁。」と説かれてある程で、巧言令色の人よりも剛毅朴訥、直情径行、他人の悪を視れば之を其儘に棄て置かず直言するものに、私徳公徳を重んずる人が多いやうに私は思ふのである。直言は素より結構の事に相違ないが、直言するに就ては能く時と場合とを稽へ、又直言するに就ての形式にも注意せねばならぬものである。何でも他人の悪を見つけ次第、直に之を包む所無く無茶苦茶に言つてしまひさへすればそれが仁の道に適ふものだと思はば甚しい心得違ひである。是に於てか孔夫子も、他の処では、発いて直とする之を暴といふ、と戒められてあるほどで、処かまはず他人の弱点を挙げ、之を衆人の目前に暴露したりするのは、仁に近い剛毅朴訥といふよりも寧ろ礼を知らぬ乱暴の極といふべきもので、これは血気に逸り易い青年子弟諸君の大に慎まねばならぬ点である。巧言令色と礼とを混同する事の悪るいやうに、徒に他人の非を摘発して直とするのも、亦悪い事である。
 「学而」篇に曾子が説かれて居る、日に三省せよとの教訓に就ては前回も一寸申述べ置いたが、これは、単に品性の涵養上に利益があるばかりのもので無い。私の経験によれば、記憶力を増進する上にも、少からぬ効がある。一日の仕事を終つて床に就てからでもよいから、その日に如何な事をして来たかを静に想ひ回らす事になれば、若し他の為に謀つて忠ならざりしことや、友人に対して信義の足らなかつた事、乃至は又他人にのみ道を守るべきを強ひて自ら修むるところの足らなかつた事なぞ、ありありと皆心に浮んで来て、今後斯る過ちを再びせぬやうにとの気を起し、身を慎む上に無論大効がある。同時に又その日にあつたことが一々記憶の上に展開されて来る為に、之を順序よく心意の中に揃へて一目に検閲する事にもなり、深い印象が脳に残つて自然と容易に忘れ得られぬものになる。
 三省の法は、斯く記憶力を増進する上にも効のあるもの故、仮令徳性修養の為で無いにしても、毎晩床に這入つてからとか、或は又、翌朝になつてから、兎に角自分が一日にした仕事に就て考へて見るやうにしなさいと、私は、時折私の子女達にも申聞かせるが、さて、実行は却〻六ケ敷様子である。然し、私は曾子の所謂三省の実行を、是非今の青年子弟諸君に御勧め致したいのである。
 仁は前にも申述べた如く道徳の大本であるが、之を実地に行ふに就ては如何に致すべきであるかといふに、茲に孔夫子が教へられて居る如く、まづ手近い所から始めて、家にあつては父母に孝を尽し、外に出ては朋友等に対し尽すべきを尽し、何事にも慎み深く、信義を重んじて偽らず、如何なる人に対しても愛情を以て接するやうにしさへすれば、それが仁になるのである。かく、内外に対し尽すべきを尽して猶ほ余力があらば、文即ち文字の上の学問をせよといふのが孔夫子の教訓である。
 「行ひ余力あらば則ち以て文を学べ」との此の句は、大に味ふべきもので、内外に対し、我が尽すべき道を尽しもせずに徒に文字の学問ばかりをしても、その人は実行の伴はぬ文字の人になつてしまひ立派な人とは云ひ得られぬ事になる。然し当今の青年子弟中には、実行に努めずして行ひ余力あるに非ざるに文を学ぶことにのみ専らならんとする弊が無いでも無い。これは大に戒むべき点であらうと思ふが、茲に挙げた一章は、日常実地の行ひに就て孔夫子の遺された教訓のうちでも根本的のもので、論語の骨子であると云へば云へぬでも無い。
 これは「為政」篇にある章だが、五経の中の詩経は、其昔天子が諸国の風俗民情を知つて施政の参考に供せられんとし寄せ蒐められた民謡や其他の詩篇より成つたものである。孔夫子の時代には、それが三千余篇ばかりあつたところを、孔夫子が刪修して三百十一篇に約められ、更に秦の始皇帝が書を楚かれた[焚かれた]時に、又そのうちから六篇だけ散逸してしまひ、現に三百五篇のみが残つて今の詩経を作して居るのである。
 詩経開巻の第一には「関々たる雎鳩は河の洲に在り、窈窕たる淑女は君子の好逑」とあるが、これは周の文王が大姒と仰せらるゝ妃を納れられた時に宮人の謡つた詩で、君子が容色の美しい心情の貞淑な起居の床しい淑女を配偶にせらるれば家庭円満和気靄々であるとの意に外ならぬ。而も之が詩経全篇の骨子で、一家和合の秘訣は家族のものに邪念の無い事である。家族のものに邪念が無ければ自然と家が斉ひ家が斉へば国も治まり、天下も平かになつて、広義に於ける仁が行はれることになる。故に、人は殊に家にある時に、小児らしく無邪気になつてゐることが必要である。
 漸次「為政」篇に移つて申述べるが、井上哲次郎博士も論ぜられて居るやうに、孔夫子は、昨今の言で申す却〻の活動家で、寸時も息む処なく努力し修養に勉められたものゆゑ、殆ど十年毎に思想の状態が一変し、七十歳になられた頃には、如何に心のまゝに行つてもそれがチヤンと人間の履むべき道に合致し、決して規矩を超えるやうなことの無かつたものと思はれる。然し、私のやうに菲徳なものは、却〻さうは参らぬ。既に七十余歳に相成つた今日でも、若し心の欲するまゝに行ふやうにすれば、依然規矩を超えて乱れる事になる。幸に私が曲りなりにも兎に角規矩を超えた行ひに陥らずに済むのは、幸に克己の賜である。私が克己、即ち己れに克つ事に力めて私の心を制するやうにしなければ、決して今日の私であり得るもので無い。克己は実に偉大なる力である。
 然し七十余歳になつた今日、孔夫子が僅に四十歳にして達し給うた不惑の境涯にだけには、私も何うやら斯うやら達し得られたやうに思ふ。今より十五六年前までは、種々他人の御説を聞くと成る程それも左様だと能く惑つたものであるが、今日ではまづ斯る惑を起さずに済む。一例を申述べると、国民に信念を起さするには神道に限るとの説を私に御聴かせ下されて神道さへ信ずれば国民道徳は自然に昂まるものと御説きになる方もある。十四五年前ならば之を聴くと或は左様かと思はぬでもなかつたらうが早や七十余歳になつて処世の実地を久しく経験して参つた今日では、国家内外の事情も参酌せねばならぬものと思ふから直ぐ夫れに心を動かすといふやうな惑は起らぬのである。
 私の今日までに於ける経験を談話すれば、十有五にして学に志したと丈けは申上げて憚るところは無いが、三十にして立つたとは申されぬ。二十四歳の時郷里を出でて京都に赴いたのは、私が兎に角今日までに相成つた素地を作つたもので、その時に郷里を出なければ、或は今日あるを得なかつたかも知れぬ故、お前は三十にもならぬ二十四にして孔夫子よりも早く立つたのだと仰せらるゝ方もあるか知らぬが、あの時の私の心情を回顧て顧ると、什麽しても立つたのだとは云ひ得ない。何れかと云へば間違つた行ひに出でたもので、今日の御時勢に相成つて当時の事を想ひ回らすと、天朝に対し奉り畏れ多く思ふほどである。
 当時の考へは唯無暗に過激ばかりで、自分の過激な意見が貫らなければ死んでしまふといふに過ぎなかつたものである。然し、死ぬと云つても、華厳の滝に投じた藤村操のやうに、自分一人が死んでしまふといふのでは無く、必ず道伴れを拵へ、自分の過激な意見を行ふのに邪魔立てをした者を殺して一緒に死なうといふのであつたから、立つどころか、什麽しても間違つた行ひに出でたものと云はねばならぬ。
 孔夫子は五十歳にして天命を知り、天の命ずる所を覚つて行はれるやうになつたと曰はれてるが、私は幾歳になつた時から天の命ずる所を知り得たなぞと高言は致し得ぬものである。然し、慶喜公や当時静岡藩を預つて居つた大久保一翁などに、明治政府の召に反いては却て徳川家を不利な破目に陥らしめることになるからと説かれた結果、一時、明治政府に仕官したこともあるが、兎に角私は一度慶喜公に仕へて身を立てた身分のもの故、慶喜公が既に大政を奉還せられて世捨人になられた上は、私も亦主従の義を守り、官途に就て政治向のことに関係致すまいと決心した精神だけは、仏蘭西から帰朝の明治元年以来今日に至るまで一貫して毫も変らぬのである。私の精神は、旧主家たる徳川家に対する情義を全うしたいといふのにある。
 前回にも申述べ置ける如く、私が仏蘭西に留学するやうになつたのは水戸の民部公子に随伴しての事であつたが、当時私の外にも同行した留学生があつて、民部公子及び一行留学生の費用としては毎月五千弗ばかり支給せられて居つたものである。私は当時理財のことに通じて居るからといふので会計の衝に当らしめられ、民部公子御手廻りの家具調度等も多く買ひ調へたが、明治元年一行帰朝の際には、買ひ求めた器具一切と予納借家料の回収等を、当時巴里にあつた帝国名誉領事の仏人フロリ・ヘラルドに一時委托して参つたのである。諸道具の売払代金と借家料の回収金とを合すれば彼是二万円ばかりになり回送せられて来たところ、維新の為に政府が変つてしまつてるのでその二万円が新政府のものであるか、或は又民部公子に下げらるべきものであるかに就て随分喧ましい議論が起つてゴタ〳〵したものである。
 その時に私は態〻静岡から東京に出て新政府当局に交渉し、仏蘭西に残して来た諸道具や借家料回収金などは、仮令明治政府になつてから現金にせられたにしろ、道具を買つたり借家料を予納した時の費額は、曩に留学中民部公子に支給せられた金額のうちより私なぞが御倹約を致させ申して支出したのであるから、何れも民部公子の私有財産である。依て仏蘭西より今回回送された現金は当然民部公子に御下げになつて然るべきものであると主張し、その二万円ばかりを受取つて帰るやうにしたこともある。これなぞも、一に旧主家徳川家に尽したいとの精神から出たものである。
 そんなら私の精神は勝海舟伯と全く同一であつたかと云へば、爾うでもない。私は、勝伯が余り慶喜公を押し込めるやうにせられて居つたのに対し快く思はなかつたもので、伯とは生前頻繁に往来しなかつた。勝伯が慶喜公を静岡に御住まはせ申して置いたのは、維新に際し将軍家が大政を返上し、前後の始末が旨く運ばれたのが一に勝伯の力に帰せられてある処を、慶喜公が東京御住ひになつて、大政奉還前後に於ける慶喜公御深慮のほどを御談りにでもなれば、伯の金箔が剥げてしまふのを恐れたからだ、などといふものもあるが、まさか勝ともあらう御人が爾んな卑しい考へを持たれよう筈がない。たゞ慶喜公の晩年に傷を御つけさせ申したくないとの一念から、静岡に閑居を願つて置いたものだらうと私は思ふが、それにしても余り押し込め主義だつたので、私は勝伯に対し快く思つて居なかつたのである。慶喜公の東京御住ひになられたのは伯の死なれてから後の事である。
 私の仏蘭西から帰朝した時には、勿論大政奉還後で、徳川家へは七十万石の藩を天朝から静岡に賜はつたのだが、当時なほ榎本武揚の一隊が函館に籠り、一ト旗挙げて騒いでる頃であつた。神田の錦町に静岡藩の役所があつたので、私は帰朝後其処で勝伯と屡々御会ひしたものである。
 当時、徳川家が朝敵名義で懲罰にならずに済み、静岡一藩を賜はるやうになつたのも畢竟勝伯の力である。又勝伯を殺さうとするものが幕臣中に数多くあるに拘らず、何れも伯の気力に圧せられて近づくことが能きぬなぞと、伯の評判は実に嘖々として喧しいもので、私も亦当時は些か自ら気力のあることを恃みにして居つた頃であるから、気力を以て鳴る伯とは好んで会つたものである。然し、当時の私と伯とは全然段違ひで、私は勝伯から小僧のやうに眼下に見られ、民部公子の仏蘭西引揚には、栗本のやうな解らぬ人間が居つたんで嘸ぞ困つたらう、然し、お前の力で幸ひ体面を傷けず、又何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた、などと賞められなんかしたものである。
 函館に籠つた榎本武揚以下旧幕臣の面々は、北海道を独立さして置いてそれから其手にある旧幕府の軍艦に乗込み、大阪を衝かうなぞといふ考へを懐いてたものである。当時これは必ずしも実行し得られぬと限つた空想でも無かつたので、恭順の意を表して居らるゝ慶喜公を首領に戴くわけにも行かぬ処から、折柄帰朝せられた水戸の民部公子を首領に担がうと、函館の方からは切りに私なぞへも投軍を勧めに来たものである。既に、民部公子及び私共の一行が上海に着した時にも同地まで此事で出迎に来たものさへあつた。然し私は断乎として斯る勧めに応じなかつたのみならず、民部公子にも之は応ぜられぬやうに申上げたのであるが、私が帰朝して神田錦町にあつた静岡藩の役所で勝伯に御遇ひした時には、幕臣のうちにもまだ〳〵斯る間違つた考へを起すものがあるので困る、然しお前は民部公子を爾んな者共に担がれぬやうにして呉れたので嬉しい、などと私に申されたこともある。
 私が函館に旗揚をした榎本武揚の軍に投ずるのを勧められた時に之に応じなかつたのも、一に慶喜公の御意のあるところに従つたに外ならぬもので、慶喜公に対して義を守ることだけは、終始一貫して参つたと申しても決して過言でなく、明治六年幸にして官を辞するを得てから以後は断じて政治に思を絶つたのである。是が若し天命を知るといふものならば、私も或は明治元年六月以来天命を知つた者と云へば云へるかも知れぬ。明治元年は私が二十七歳の時である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.657-663
底本の記事タイトル:一九三 竜門雑誌 第三二七号 大正四年八月 : 実験論語処世談(三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第327号(竜門社, 1915.08)
初出誌:『実業之世界』第12巻第13号(実業之世界社, 1915.07.01)