デジタル版「実験論語処世談」(3) / 渋沢栄一

15. 函館投軍を勧めらる

はこだてとうぐんをすすめらる

(3)-15

 函館に籠つた榎本武揚以下旧幕臣の面々は、北海道を独立さして置いてそれから其手にある旧幕府の軍艦に乗込み、大阪を衝かうなぞといふ考へを懐いてたものである。当時これは必ずしも実行し得られぬと限つた空想でも無かつたので、恭順の意を表して居らるゝ慶喜公を首領に戴くわけにも行かぬ処から、折柄帰朝せられた水戸の民部公子を首領に担がうと、函館の方からは切りに私なぞへも投軍を勧めに来たものである。既に、民部公子及び私共の一行が上海に着した時にも同地まで此事で出迎に来たものさへあつた。然し私は断乎として斯る勧めに応じなかつたのみならず、民部公子にも之は応ぜられぬやうに申上げたのであるが、私が帰朝して神田錦町にあつた静岡藩の役所で勝伯に御遇ひした時には、幕臣のうちにもまだ〳〵斯る間違つた考へを起すものがあるので困る、然しお前は民部公子を爾んな者共に担がれぬやうにして呉れたので嬉しい、などと私に申されたこともある。
 私が函館に旗揚をした榎本武揚の軍に投ずるのを勧められた時に之に応じなかつたのも、一に慶喜公の御意のあるところに従つたに外ならぬもので、慶喜公に対して義を守ることだけは、終始一貫して参つたと申しても決して過言でなく、明治六年幸にして官を辞するを得てから以後は断じて政治に思を絶つたのである。是が若し天命を知るといふものならば、私も或は明治元年六月以来天命を知つた者と云へば云へるかも知れぬ。明治元年は私が二十七歳の時である。

全文ページで読む

キーワード
函館, 投軍
デジタル版「実験論語処世談」(3) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.657-663
底本の記事タイトル:一九三 竜門雑誌 第三二七号 大正四年八月 : 実験論語処世談(三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第327号(竜門社, 1915.08)
初出誌:『実業之世界』第12巻第13号(実業之世界社, 1915.07.01)