デジタル版「実験論語処世談」(3) / 渋沢栄一

3. 仁とは何ぞや

じんとはなんぞや

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 仁に就ては、孔夫子も論語のうちに種々と説かれてあつて、処々に「仁」の文字が散見する。之を狭義に解釈すれば人に対して日々親切を尽してやるといふやうな簡単なる意味になつてしまふが、之を広義に解釈すれば、論語「雍也」篇に御弟子の子貢が「如有博施於民。而能済衆如何。可謂仁乎。」と孔夫子に御尋ねすると、「何事於仁。必也聖乎。」と答へられてあるのでも解るやうに、済民の事即ち治国平天下が仁であるといふ事になる。又、文章軌範に輯録せられてある韓退之の一文「原道」の冒頭には、「博愛之謂仁。行而宜之之謂義。由是而之焉之謂之道。」とあるほどで、道徳の大本になるものは亦仁である。仁は決して小さな私徳にのみ限らるべきものでない。公徳に於て又之を体する事にせねばならぬものである。
 孔夫子は管仲の人物に感服して居られず、論語「八佾」篇に於て、「管仲之器小哉。」と稍〻罵らるゝ如き意味を漏らされたほどで、孟子の如きは、弟子に当る公孫丑の問に応じ、「子誠斉人也。知管仲晏子而已矣。」と答へられ、汝は斉の生れで同国故両人を豪いと思ふかも知らんが、管仲や晏子は大して豪い人物で無かつたぞと諭されて居る[。]然し、管仲の社会上尽した功は孔夫子も之を没せられず、「憲問」篇に於て、「微管仲。吾其被髪左袵矣。」と、管仲が風俗改良に致した功を頌へ、「如其仁。如其仁。」と、天下を統一し風教を興した管仲の働きを仁であると賞せられて居る。之によつて見ると、治国平天下の道も亦仁の中であることが愈〻明かになる。

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デジタル版「実験論語処世談」(3) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.657-663
底本の記事タイトル:一九三 竜門雑誌 第三二七号 大正四年八月 : 実験論語処世談(三) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第327号(竜門社, 1915.08)
初出誌:『実業之世界』第12巻第13号(実業之世界社, 1915.07.01)