デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.309-315
子曰。二三子以我為隠乎。吾無隠乎爾。吾無行而不与二三子者。是丘也。【述而第七】
(子曰く、二三子我を以て隠すと為す乎。吾れ爾に隠す無し。吾れ行ふとして二三子に与《し》めさざる者無し、是れ丘也。)
孔夫子が常に弟子等を相手にして談り教へられて居つた処は、深遠なる学理にも非ず、又哲理めいた神秘なものでも無く、至極平凡で、有り触れた仁義忠孝礼智信の実践道徳以外に出でなかつたのである。殊に、怪、力、乱、神を談ることなんかは一切避けられたものだから御弟子のうちには何んとなく之に対し物足らぬ如き感じを催し、苟も孔夫子ともあらう一代の師表が、斯んな浅薄な事しか知つて居られぬといふ筈は無い、必ずや猶ほ一層深く稽へて居らるる処もあるだらうが、吾々を未熟者と思召され、之に高尚な教を説いて聴かしても何れ程も解るもので無いからとの見地より、斯くは平凡至極の実践道徳にのみ就て教を垂れられ、深遠なる学理や複雑なる哲理は之を深く胸底に蔵して神秘のものとし、吾々へは御聴かせなさらぬのであらうとの意見を持つ者を生ずるに至り、それが孔夫子の耳にも入つたので、孔夫子も遂に茲に掲げた章句にある如き語を発せらるるに至つたものらしく思はれる。(子曰く、二三子我を以て隠すと為す乎。吾れ爾に隠す無し。吾れ行ふとして二三子に与《し》めさざる者無し、是れ丘也。)
然し孔夫子が自ら「吾れ行ふとして二三子に与めさざる者無し、是れ丘なり」と言明せられて居る通り、孔夫子日常の御言行には、露些も隠すとか神秘的にして置くとかいふこと無く、その平素が是れ孔夫子の全体であつたのである。孔夫子の言行は余りに平凡であつたから却て弟子等に諒解せられなかつたのだ。西洋の学者だとか称せらるるものの中には、之を平易に説きさへすれば解り切つてるやうな事理を強ひて廻りくどく難かしい理窟にして説き教へ、それで得意になつてる者も大分あるらしいが、孔夫子は決して爾んな詐術めいた真似をせられず、平易な事は、誰でも解るやうに平易に説いて聴かせられたのだ。然し、それでは何となく難有味に乏しい如き気がせらるる処あり弟子達の二三子の中に斯く不平を漏らす者を出したのであらう。
余り現代放れのした人間臭く無い哲理とか何とかいふものは、誰が聞いても直ぐ解るといふもので無いが、同時に又余りに平凡な言行も平凡過ぎて却て一般世間から諒解せられぬやうになる恐れのあるものだ。況んや孔夫子の言行たるや、常に円満なる常識を基礎とし、放漫なやうな所があるかと思へば引締つた所があり、引締つてるかと思へば放漫のやうな所もあるといふ具合だから、一寸凡俗の眼には諒解に苦む如き点が無いでも無い。
近年の人のうちで、久しく東京高等商業学校の校長をした矢野二郎といふ人は、一寸端倪すべからざる処があるかのやうに見え、或る一部の人々からは薄気味悪く思はれもしたが、決して腹の中の解らなかつた人では無い。ただ少し常人と異つた奇行に富んだ処のあつた人で他人が泣いてる処へ行つて茶かして見たり、ブリブリ怒つてる処へ行つてゲラゲラ笑つて見たり、笑つてる処へ行つて怒つて見たりしたもんだから、何んとなく常識では腹の底の解らぬ人であるかのやうに観られたに過ぎぬのである。然し真正の意味に於ける常識の至つて発達した人で、胸中に蔵する処は、造次にも顛沛にも一に商業教育によつて国家の振興を計らんとするにあつたのだ。之が為適才を適所に置くことに意を用ひねばならぬからとて、始終苦心して居つたのである。
私は矢野氏と性格が全然違つてたが、是等の意見に於ては頗る一致して居つたから、矢野氏とは随分多くの人が衝突して其間に杆格を生ずるやうに成つたにも拘らず、私だけは同氏の死ぬまで当初と変らぬ交際をして暮したのだ。前条にも一寸談話して置いた如く、矢野氏は親切が過ぎて却て五月蠅がらるる傾向が無いでも無かつたが、人物鑑識の明にかけては実に非凡で、神に入れるが如きものがあつた。単に自分の手にかけて薫陶した東京高等商業学校生徒の人物を見る明が非凡であつたのみならず、老若男女を問はず、何んな人でも一度矢野氏の眼に触るれば、忽ちに其価値、技能、長所、短所等を看破されてしまつたものである。而も又、適才を適所に配することに妙を得て居つたから、斯くして矢野氏に見付け出された人物はみな其の処を得て、思ふ存分各自の技倆を発揮したのである。
敢て矢野氏の校長時代ばかりに人材が東京高等商業学校へ寄り集つて来たわけでも無いのに、その時代にばかり東京高等商業学校が斯く有為の人材を多く社会へ出す事のできたのは、矢野氏に非凡な独歩の人物鑑識眼があつて、その接する人物を巧に鑑別し、各々その長所に従つて其の処を得せしむるに、根よく骨折つたからだ。如何に有為の人材でも、その長所が伯楽によつて知られて、我が居るべき処を得なければ、迚ても其の技倆を発揮し得られぬものだ。矢野氏が校長時代の東京高等商業学校卒業生が、各自の長所を発揮して今日の日本実業界に雄飛し得らるるのは、矢野氏が伯楽となつて各卒業生の長所に適する安居を与へてやつたからだ。矢野氏は奇行に富んだ人ではあつたが、この点から観察すれば、常識の能く発達した人であつたと謂はねばならぬ。孔夫子が敢て矢野氏の如き奇行があつたといふでも無いのに、物の隠し立てをする人であつたかの如く、弟子等の一部から誤解されたのは、その常識の発達した加減が余りに豪くつて、凡人の眼では之を理解することができなかつたからである。
子以四教。文行忠信。【述而第七】
(子、四を以て教ふ。文、行、忠、信。)
茲に掲げた章句は、孔夫子が常に弟子等に向つて説いて居られた教育の大綱を示したもので、孔夫子の教育主義が空論空理に流れず、実行を重んずると共に実行の動機となる精神に於ても亦重きを置き、同時に是等を飾る文事をも決して疎かにしなかつたことを説明するものである。茲に謂ふ「文」は、雍也篇の「質、文に勝てば則ち野。文質に勝てば則ち史。文質彬々、然して後に君子なり」の語中にある「文」の字と其意義が同じで、人生の修飾たる礼儀作法文雅の嗜みなどを指したものであらうと思ふのだ。ところが、古今東西を問はず、この文行忠信の四つを兼ね備へた人は、却〻少ないもので、現在に於ては勿論、歴史上の人物中にすら余り爾う多くあるものでは無い。そのうちの一つか二つを持つてる人はいくらもある。然し、四つをみな兼備したといふ人は滅多に無いのである。(子、四を以て教ふ。文、行、忠、信。)
文雅の嗜みといふものは、妙に人品を高尚にする力のあるもので、朝から晩まで帳場へ坐り込み、算盤を手から離さぬやうな人でも、それが俳句の一つも詠める人だとなれば、何処かに品の好い高尚なところがほの見えるものである。文の素養の無い人は同じく金儲けをするにも野卑なところを顕すが、文の素養のある人は同じ金を儲けるにも品を好くして儲けるものだ。世間には頼山陽を、文、行、忠、信の四つを兼ねた人であつたかの如くに観て居る者もあるらしいが、什麽も山陽は爾んな人で無いらしい。山陽には勿論才があり、又文もあつたに相違無く、忠信の精神なんかも具へてたらうが、行といふ点になると些か怪しいものだ。
山陽は幼少の頃より至つて病身で、為に肺病で死んだとさへ伝へらるるほどだが、病身であつた丈け其れ丈け母からは非常に大切にされたもので、江戸に勤番中の父春水の許へ芸州にある母が送つた手紙のうちにも、山陽が病身なのに困つてる次第やら、健康を丈夫にさせたい趣旨から、山陽の幼名を「久太郎」と改めた理由なんかまでも詳しく書いて報告したのがある。山陽も之れほど母の世話に成つて居りながら、充分母へ孝行を尽したか什麽かは稍〻疑問だ。父の春水が歿してからは随分よく孝行を尽しもしたらしいが、父の存生中は、余り母を大切にしなかつたやうに想はれぬでも無い。この点から観れば山陽も行に於ては欠くるところがあつたと謂へる。決して文行忠信の四つが揃つてた人では無いのだ。
かかる次第で頼山陽も、文行忠信の四つを兼ね具へ得られなかつたのであるが、私なんかに成ると勿論のことこの四つが揃つて居さうな筈がなく、或る行に於ては非難せらるる処が無くつても、又或る他の行に於ては欠点が多いといふやうな事になる。伊藤博文公なんかも至つて忠義の心の篤い御仁であり、又よく信義を重ぜられ、文事の素養も深くあらせられたに拘らず、或る方面の行に於ては欠くるところ多く、猶且文行忠信の四つが揃つた人であるとは謂へぬ。大隈侯なんかも文行忠信の揃つた人では無い。歴史上の人物に例を取つたら、我が朝では菅原道真、支那では司馬温公なぞが文行忠信の四つの揃つた人であらうかと思はれる。水戸の黄門光圀卿なぞも、或は文行忠信の四つが揃つてた人であらせられたと謂へるだらう。
文の素養は人の品を好くするものであることは既に申述べて置いた通りだが、当今は什麽したものか文学者と称へらるる人々が、全く文事の素養の無い者よりも下品になつて遊惰放縦に流れ、我儘勝手な生活を営んで得々たるかの如き観がある。これは、近来の文学者が「自己」を主張する西洋の文学を誤解し、他人が如何に迷惑しても自分さへ好ければ其れで可いといふ気に成つてしまつたからだ。然し「自分さへ好ければ可い」といふ気では、結局自分も立つて行け無くなるものである。人は何時でも他人の為に計らうといふ気に成つて居てこそ初めて自分を全うし得られるもので、利己一天張の人間を助けて繁栄さしてくれさうな筈は無いのである。当今の青年諸君が其処へ気が付かず、我儘勝手をしさへすればエラク成れるものと思つてるのは、飛んでも無い心得違ひである。
子曰。聖人吾不得而見之矣。得見君子者斯可矣。子曰。善人吾不得而見之矣。得見有恒者斯可矣。亡而為有。虚而為盈。約而為泰。難乎有恒矣。【述而第七】
(子曰く、聖人は吾れ得て之を見ず。君子なる者を見るを得ば、斯れ可なり。子曰く、善人は吾れ得て之を見ず。恒ある者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚くして盈てりと為し、約にして泰と為す。難きかな恒あること。)
茲に掲げた章句のうちにある「聖人」と「善人」とは、共に積極的人物を指したもので、単に、悪事を働かぬ人とか、或は俗に謂ふ善良なる人とかいふ意味では無いのである。聖人とは雍也篇にある如く、博く民に施して衆を済ふ底の人物で、ただに自ら持する事謹厳なるのみならず、天下国家の為に公益ある事業を営み、民衆輔導の大責任を負うて起つぐらゐに才徳の勝れた一代の師表を指していうたものである。ところが何れの時代にも却〻そんな人物は見当らぬので、孔夫子は深く之を歎ぜられ、そんなに人物払底なら、せめては才徳の充実したのみの君子人でも可いから之にめぐり遭ひたいものだと言はれたのである。然るに、ただ才徳の具つて自ら持することが謹厳だといふ丈けの人も当世には容易に見当らぬのだ。(子曰く、聖人は吾れ得て之を見ず。君子なる者を見るを得ば、斯れ可なり。子曰く、善人は吾れ得て之を見ず。恒ある者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚くして盈てりと為し、約にして泰と為す。難きかな恒あること。)
善人といふのも、自ら清廉を持し他を害せぬのみならず、仁に志して仁を施す人を指したものであるが、世の中には又斯く積極的に善行を積むほどの善人は至つて少ないのである。孔夫子は再び之を深く歎ぜられて、そんならせめて恒の心ある人物を得たいものだと仰せられたのだ。恒の心ある人物とは何んな性行の人かといふに、何事を為すに当つても、総て筋道の立つた事ばかりを為る人のことで、苟くも筋の立たぬ事ならば、それが如何に金儲けに成る事でも、断じて行はぬといふのが恒の心ある人と称せらるべきものである。人は一方の極端に走つてしまへば盲目になるから、筋の立たぬことでも何んでも行るやうになる。随つて、之を称して恒の心ある人だとは謂ひ得られぬのだ。されば何事を為すに当つても常に両極端を持し、一方の極端に走つてしまはぬやうに心掛けてる人で無ければ、決して恒のある心情で世の中を渡つて行けるもので無いのである。
日本の富豪連も近来は大分這裡の消息に通じて来て、無茶な馬鹿金銭を使はぬやうになり、又何んでも金銭になりさへする事ならばやると言つたやうな調子で無く成つたのは、私の甚だ悦ばしく感ずる処である。然し私は近年急に偉い富豪に成つた某家の富を増す法は、余り方法を択ま無過ぎるでは無からうかと思ふ。あれほどまでに品を悪くして富を作る必要が何処にあるのだらう? 私は某家の如き商売の方針には到底賛成ができぬのだ。某家の商売の方針が斯く恒の道を離れた野卑なものになるのは、主要なる当事者に文事の素養が無いからだらう。如何に手腕があり、又才のある人でも、文事の素養無く学問に乏しい人は、その為す処が野卑に流れ易く、金儲けなんかも兎角品が悪く成り勝のものだ。幸ひにも三井、三菱両家の当局者にはみな相応に学問があり、文事の心得もある相当の人物が据つてるので、よしや先年の海軍事件のやうなことが三井物産にあつたにしても、大体の上から観れば両家とも余り性質の悪い金儲けをせず、チヤンとした筋の立つた道を履んで営業して行くのを方針にして居るから、私はこの点に於て頗る愉快を感ずるのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.309-315
底本の記事タイトル:二七五 竜門雑誌 第三六七号 大正七年一二月 : 実験論語処世談(第四十一回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第367号(竜門社, 1918.12)
初出誌:『実業之世界』第15巻第19,20号(実業之世界社, 1918.10.01,10.15)
底本の記事タイトル:二七五 竜門雑誌 第三六七号 大正七年一二月 : 実験論語処世談(第四十一回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第367号(竜門社, 1918.12)
初出誌:『実業之世界』第15巻第19,20号(実業之世界社, 1918.10.01,10.15)