デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一

6. 聖人と善人とは何ぞ

せいじんとぜんにんとはなんぞ

(41)-6

子曰。聖人吾不得而見之矣。得見君子者斯可矣。子曰。善人吾不得而見之矣。得見有恒者斯可矣。亡而為有。虚而為盈。約而為泰。難乎有恒矣。【述而第七】
(子曰く、聖人は吾れ得て之を見ず。君子なる者を見るを得ば、斯れ可なり。子曰く、善人は吾れ得て之を見ず。恒ある者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚くして盈てりと為し、約にして泰と為す。難きかな恒あること。)
 茲に掲げた章句のうちにある「聖人」と「善人」とは、共に積極的人物を指したもので、単に、悪事を働かぬ人とか、或は俗に謂ふ善良なる人とかいふ意味では無いのである。聖人とは雍也篇にある如く、博く民に施して衆を済ふ底の人物で、ただに自ら持する事謹厳なるのみならず、天下国家の為に公益ある事業を営み、民衆輔導の大責任を負うて起つぐらゐに才徳の勝れた一代の師表を指していうたものである。ところが何れの時代にも却〻そんな人物は見当らぬので、孔夫子は深く之を歎ぜられ、そんなに人物払底なら、せめては才徳の充実したのみの君子人でも可いから之にめぐり遭ひたいものだと言はれたのである。然るに、ただ才徳の具つて自ら持することが謹厳だといふ丈けの人も当世には容易に見当らぬのだ。
 善人といふのも、自ら清廉を持し他を害せぬのみならず、仁に志して仁を施す人を指したものであるが、世の中には又斯く積極的に善行を積むほどの善人は至つて少ないのである。孔夫子は再び之を深く歎ぜられて、そんならせめて恒の心ある人物を得たいものだと仰せられたのだ。恒の心ある人物とは何んな性行の人かといふに、何事を為すに当つても、総て筋道の立つた事ばかりを為る人のことで、苟くも筋の立たぬ事ならば、それが如何に金儲けに成る事でも、断じて行はぬといふのが恒の心ある人と称せらるべきものである。人は一方の極端に走つてしまへば盲目になるから、筋の立たぬことでも何んでも行るやうになる。随つて、之を称して恒の心ある人だとは謂ひ得られぬのだ。されば何事を為すに当つても常に両極端を持し、一方の極端に走つてしまはぬやうに心掛けてる人で無ければ、決して恒のある心情で世の中を渡つて行けるもので無いのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.309-315
底本の記事タイトル:二七五 竜門雑誌 第三六七号 大正七年一二月 : 実験論語処世談(第四十一回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第367号(竜門社, 1918.12)
初出誌:『実業之世界』第15巻第19,20号(実業之世界社, 1918.10.01,10.15)