デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一

5. 菅原道真と司馬温公

すがわらみちざねとしばおんこう

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 然し斯る山陽も文才にかけては天下の第一人者で、十九歳の時、芸州の母の許を出発し江戸の父の許に上つて行く途中、一の谷と湊川とを通過した際に詠んだといふ詩が「山陽詩鈔」に載つてるが、実に堂堂たるものである。その詩は山陽が果して一の谷や湊川を通つた際立処に詠んだものか、或は又翌日に成つてから詠んだものか、それとも亦時日を随分経過してから後に漸く成つたものか――その辺までは明かで無いにしても、何にしろ十九歳の青年が詠んだ詩とは思へぬほどの傑作だ。それから、「日本外史」や「政記」にある山陽の史論は、前条にも一寸談話して置いたやうに、北畠親房の「神皇正統記」やら新井白石の「読史余論」やらにある議論を漢文に翻訳した処が多く、必ずしも頼山陽の専売であるとは謂へぬが、時勢に処する道を知らんとするには歴史の研究を疎かにしてはならぬとの一見識を立て、歴史の必要に着眼したところは、山陽の驚くべき卓見であつたと謂はねばならぬ。
 かかる次第で頼山陽も、文行忠信の四つを兼ね具へ得られなかつたのであるが、私なんかに成ると勿論のことこの四つが揃つて居さうな筈がなく、或る行に於ては非難せらるる処が無くつても、又或る他の行に於ては欠点が多いといふやうな事になる。伊藤博文公なんかも至つて忠義の心の篤い御仁であり、又よく信義を重ぜられ、文事の素養も深くあらせられたに拘らず、或る方面の行に於ては欠くるところ多く、猶且文行忠信の四つが揃つた人であるとは謂へぬ。大隈侯なんかも文行忠信の揃つた人では無い。歴史上の人物に例を取つたら、我が朝では菅原道真、支那では司馬温公なぞが文行忠信の四つの揃つた人であらうかと思はれる。水戸の黄門光圀卿なぞも、或は文行忠信の四つが揃つてた人であらせられたと謂へるだらう。
 文の素養は人の品を好くするものであることは既に申述べて置いた通りだが、当今は什麽したものか文学者と称へらるる人々が、全く文事の素養の無い者よりも下品になつて遊惰放縦に流れ、我儘勝手な生活を営んで得々たるかの如き観がある。これは、近来の文学者が「自己」を主張する西洋の文学を誤解し、他人が如何に迷惑しても自分さへ好ければ其れで可いといふ気に成つてしまつたからだ。然し「自分さへ好ければ可い」といふ気では、結局自分も立つて行け無くなるものである。人は何時でも他人の為に計らうといふ気に成つて居てこそ初めて自分を全うし得られるもので、利己一天張の人間を助けて繁栄さしてくれさうな筈は無いのである。当今の青年諸君が其処へ気が付かず、我儘勝手をしさへすればエラク成れるものと思つてるのは、飛んでも無い心得違ひである。

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菅原道真, 司馬光
デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.309-315
底本の記事タイトル:二七五 竜門雑誌 第三六七号 大正七年一二月 : 実験論語処世談(第四十一回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第367号(竜門社, 1918.12)
初出誌:『実業之世界』第15巻第19,20号(実業之世界社, 1918.10.01,10.15)