デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一

2. 顔回は孔子を解す

がんかいはこうしをかいす

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 然し、孔夫子の御弟子のうちでも流石に顔回ほどの傑物になれば、英雄能く英雄を知るとでも謂はうか、孔夫子の人物を完全に理解して居られたらしく、論語子罕篇にもある如く、自分の徳が何かにつけて孔夫子に及ばぬところ多きを思ひ、喟然として「之を仰げば弥〻高く之を鑽れば弥〻堅く、之を瞻れば前に在り、忽焉として後に在り。夫子循々然として善く人を誘き、我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす」と歎じて居る。孔夫子といふ方は、実に能く常識の発達した人で、些かも渋滞する処なく、郷に入つては郷に従ひ、宗廟に謁すれば便々如として事毎に傍人を顧みて礼を問ひ、弟子の子貢が毎月朔日に羊を犠牲にして献ぐる礼を虚礼なりとして廃せんとすれば、「賜(子貢)や爾は其羊を愛むも、我は其礼を愛む」と、切りに礼を重んぜらるる処があるかと思へば、一方家庭に入つては申々如として悠然くつろがれたものだ。厳なるが如く、寛なるが如く殆ど端倪すべからざる処に孔夫子の偉大なる平凡があるのだ。つまり弟子等の多くが、孟子も曰つてる如く、道を遠きに求めて居つたにも拘らず、孔夫子は却つて之を邇きに求め、作止語黙の間に実践躬行して居つたので孔夫子は恰も道を秘して示さ無かつたかの如くに誤解せられたのである。
 近年の人のうちで、久しく東京高等商業学校の校長をした矢野二郎といふ人は、一寸端倪すべからざる処があるかのやうに見え、或る一部の人々からは薄気味悪く思はれもしたが、決して腹の中の解らなかつた人では無い。ただ少し常人と異つた奇行に富んだ処のあつた人で他人が泣いてる処へ行つて茶かして見たり、ブリブリ怒つてる処へ行つてゲラゲラ笑つて見たり、笑つてる処へ行つて怒つて見たりしたもんだから、何んとなく常識では腹の底の解らぬ人であるかのやうに観られたに過ぎぬのである。然し真正の意味に於ける常識の至つて発達した人で、胸中に蔵する処は、造次にも顛沛にも一に商業教育によつて国家の振興を計らんとするにあつたのだ。之が為適才を適所に置くことに意を用ひねばならぬからとて、始終苦心して居つたのである。
 私は矢野氏と性格が全然違つてたが、是等の意見に於ては頗る一致して居つたから、矢野氏とは随分多くの人が衝突して其間に杆格を生ずるやうに成つたにも拘らず、私だけは同氏の死ぬまで当初と変らぬ交際をして暮したのだ。前条にも一寸談話して置いた如く、矢野氏は親切が過ぎて却て五月蠅がらるる傾向が無いでも無かつたが、人物鑑識の明にかけては実に非凡で、神に入れるが如きものがあつた。単に自分の手にかけて薫陶した東京高等商業学校生徒の人物を見る明が非凡であつたのみならず、老若男女を問はず、何んな人でも一度矢野氏の眼に触るれば、忽ちに其価値、技能、長所、短所等を看破されてしまつたものである。而も又、適才を適所に配することに妙を得て居つたから、斯くして矢野氏に見付け出された人物はみな其の処を得て、思ふ存分各自の技倆を発揮したのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.309-315
底本の記事タイトル:二七五 竜門雑誌 第三六七号 大正七年一二月 : 実験論語処世談(第四十一回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第367号(竜門社, 1918.12)
初出誌:『実業之世界』第15巻第19,20号(実業之世界社, 1918.10.01,10.15)