2. 顔回は孔子を解す
がんかいはこうしをかいす
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近年の人のうちで、久しく東京高等商業学校の校長をした矢野二郎といふ人は、一寸端倪すべからざる処があるかのやうに見え、或る一部の人々からは薄気味悪く思はれもしたが、決して腹の中の解らなかつた人では無い。ただ少し常人と異つた奇行に富んだ処のあつた人で他人が泣いてる処へ行つて茶かして見たり、ブリブリ怒つてる処へ行つてゲラゲラ笑つて見たり、笑つてる処へ行つて怒つて見たりしたもんだから、何んとなく常識では腹の底の解らぬ人であるかのやうに観られたに過ぎぬのである。然し真正の意味に於ける常識の至つて発達した人で、胸中に蔵する処は、造次にも顛沛にも一に商業教育によつて国家の振興を計らんとするにあつたのだ。之が為適才を適所に置くことに意を用ひねばならぬからとて、始終苦心して居つたのである。
私は矢野氏と性格が全然違つてたが、是等の意見に於ては頗る一致して居つたから、矢野氏とは随分多くの人が衝突して其間に杆格を生ずるやうに成つたにも拘らず、私だけは同氏の死ぬまで当初と変らぬ交際をして暮したのだ。前条にも一寸談話して置いた如く、矢野氏は親切が過ぎて却て五月蠅がらるる傾向が無いでも無かつたが、人物鑑識の明にかけては実に非凡で、神に入れるが如きものがあつた。単に自分の手にかけて薫陶した東京高等商業学校生徒の人物を見る明が非凡であつたのみならず、老若男女を問はず、何んな人でも一度矢野氏の眼に触るれば、忽ちに其価値、技能、長所、短所等を看破されてしまつたものである。而も又、適才を適所に配することに妙を得て居つたから、斯くして矢野氏に見付け出された人物はみな其の処を得て、思ふ存分各自の技倆を発揮したのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(41) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.309-315
底本の記事タイトル:二七五 竜門雑誌 第三六七号 大正七年一二月 : 実験論語処世談(第四十一回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第367号(竜門社, 1918.12)
初出誌:『実業之世界』第15巻第19,20号(実業之世界社, 1918.10.01,10.15)