デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575

樊遅請学稼。子曰。吾不如老農。請学為圃。曰。吾不如老圃。樊遅出。子曰。小人哉樊須也。上好礼則民莫敢不敬。上好義則民莫敢不服。上好信則民莫敢不用情。夫如是則四方之民襁負其子而至矣。焉用稼。【子路第十三】
(樊遅稼を学ばんことを請ふ。子曰く、吾れ老農に如かずと。圃を為すを学ばんことを請ふ。曰く、吾れ老圃に如かずと。樊遅出づ。子曰く、小人哉樊須や。上礼を好めば則ち民敢て敬せざるなく、上義を好めば則ち敢て服せざるなく、上信を好めば則ち民敢て情を用ひざるなし。夫れ是の如ければ、即ち四方の民其の子を襁負して至らん。焉ぞ稼を用ひんやと。)
 本章は、樊遅は君子の道を学んで居ながら小人の事を問うたので、孔子は樊遅は小人であると咎めたのである。併し茲での小人と云うたのは、それ程憎む意志あつての事でない。而して茲での稼とは五穀を植ゑることを言ひ、圃とは菰菜を植ゑることを言ふので、言ひ換へれば、稼は事を言ひ、圃は地を云ふことになる。
 樊遅は孔子に対つて、稼を学びたいがどうすればよろしからうかと問うたのに対し、孔子はそれは永年稼事に従事して居つて経験の多い老農に及ばないから、老農に就て学んだがよいと答へられた。然るに樊遅は更に圃を学ぶにどうすればよいかと又尋ねた。すると孔子は、それは、永年圃事に従事して経験多い老圃に及ばないから、老圃に就て学んだが宜しからうと答へられた。
 孔子は樊遅が其処を退いた後、其場に居た門人達に謂ふには、樊遅は小人のやうに細事の事を言うて居る。が若し、上位にある者が礼を好むならば、民は之れに感じて礼を好むやうになる。又、上位にあるものが義を好めば、民は之れに感じて義を傚ふものである。上位にあるものが信を好めば、民は之れに化して誠実を以て上に事へるのである。かうあれば始めて四方の民が其の子を襁負して来るものである。何ぞ上位にあるものが稼のやうな細事を学ぶ必要があらうぞと戒められたのである。
 どんなにエライ人だからと云つて、何んでも皆知つて居るものでない。然るに樊遅は、孔子はどんな細かい事でも知つて居るであらうと思うて、稼、圃の事を問うて見た。処が孔子は、それは老農、老圃に及ばないと云はれた。併し又エライ人でも、その人の性質で能く細事を知つて居る人もある。
 今は故人だが黒田清隆と云ふ人があつた。先きに北海道長官を勤めて居つたが、明治二十一年伊藤内閣の後を引受けて内閣を組織した位の人であつた。そして薩摩の人で、大体の事には明い人で、少しも細事を知つて居るやうな人ではなかつた。
 処が黒田さんは色々細かいことを能く知つて居られた。確か伊藤内閣の時で、農商務大臣をして居られた時だと思ふ、私は製紙会社の事で、色々お話しをする必要があつて、大川平三郎を伴れてお会ひしたことがある。
 これまで製紙の材料と云へば、楮、三椏に限つて居るが、藁を以て製紙をすると云ふことであつた。米国などでは、麦藁で紙を作つて居るが、日本ならば米藁でも出来ると云ふ趣意のことを話したのであるが、その時は色々な質問を受けたものである。その時に話は遂に農業の事まで進んで行つた。殊に先きには北海道長官をして居られたので北海道の農業の事にまで進んだが、却々精しいものであつた。こんなエライ人でもその人の性質、又は境遇によつて農業の如き細事まで知つて居られるのである。
 又その時にお昼を食べたが、それは鰻であつた。処が、黒田さんは鰻に就ても精しい知識を有つて居られた。そして、この鰻は何処の出であるか知つて居るかと言はれたが、私はそんなことは知らないと云ふと、鰻は何処のものはよいとか、下り鰻はまづいとか、地廻り鰻はどうであるとか、養魚場の鰻はどうであるとか、川鰻はよいが、海鰻は悪いとか、鰻屋としては、竹葉亭はかう云ふ特長があり、太田屋はかうである、又たれはどうでなければならぬものだと言はれた。大局のみ摑へて仕事をなさる大手腕家とのみ知つて居つた私共は、こんな細事のことまで能く知つて居られたことには只々感心したやうな次第である。
 井上さん(馨)も大臣までなさるやうな大人物で大きなことのみなさる方であるのに、半面には大の料理通で、却〻精しいものである。殊に単なる料理通ではなく、御自身で庖丁を取つて料理をなさるのだから本物である。
 私なども時々招待されて井上さんの料理の御馳走になつた。かう云ふ時には能く料理の事を説明されて、甘いだらうと云ふことを言はれる。能く判らんこともあるけれども、結構だと云つて賞めて置きました。若しまづいなど云ふと御機嫌が悪いから――併し、なんといつても御自慢なさる丈あつて上手なものである。私なども幼年時代に能くお給仕に出て、料理はどんなものであるか位は知つて居つたものであるが、井上さんのは御自分で料理なさるものだから、それには及ぶものではなかつた。
 人には各長所があつて、どんなエライ人であつても、何んでも知つて居るものではない。又知り得るものでない。併し黒田さんや井上さんのやうな、大人物でも時には細かい事を能く知つて居る事もあるものである。それでも長所に向つて問ふことはよいものである。然るに樊遅は孔子に対して稼を問うたと云ふが如きは、孔子の長所を没却した質問と言はなければならぬ。これ樊遅の常識に富んで居らぬ証拠である。
子曰。誦詩三百。授之政以[以政]不達。使於四方不能専対。雖多亦奚以為[。]【子路第十三】
(子曰く。詩三百を誦し、之れに授くる政を以てして達せず。四方に使ひして専対する能はずんば、多と雖も亦奚《なに》以てせん。)
 本章は詩経の徳と並に学問日用の事を行ふべきを論じたのである。詩経は道徳と教育とに多く引証されて居る。彼の人口に膾炙して居る「関々雎鳩。在河之洲。窃窕淑女。君子好逑」は詩経にある章句である。又大学などには能く引用されて居る「緡蛮黄鳥。止于丘隅」とか「穆々文王。於緝熙敬止。為人君止於仁。為人臣止於敬。為人子止於孝。為人父止於慈。与国人交止於信」とか「瞻彼淇澳。菉竹猗々。有斐君子。如切如磋。如琢如磨。瑟兮。僴兮。赫兮。喧兮。有斐君子。終不可喧兮」とか「於戯前王不忘。君子賢其賢。而親其親。小人楽其楽。而利其利。此以没世不忘也」なども皆之である。そしてこの詩経の中には宮中のこともあれば農業のこともあり又童謡もあるので、その中から時勢に合せて意義あるものを引用して諷刺したものがある。此章句も矢張りそのやうなものであるが何の必要あつて此処に引用して嘆声を発せられたのであるか解らぬ。論語には之ばかりでなく諸所にこんな場合のものもあるので林泰輔氏に質してみたが矢張りその理由が判らぬと云ふことである。若しその理由を知らうとするには孔子の歴史を明かにしなければならぬ。而して之れが為に多くの金を投じて研究したならば或は判らぬこともあるまいと言はれたことがある。
 この章句は、詩は人心の物に感じて言に現はれたもので、人情から出たものである。故に詩を学んで之れを活用すると風俗の変遷を知ることも出来、政治の得失をも見ることが出来る。且つ其の言は温厚和平で諷刺に富んで居るから、之れを学ぶと政治にも通じ、人に接する場合にも能く説明することが出来る。かうなつて始めて詩を学んだと云ふことが出来る。
 若し詩三百篇を学んでも、之れに政治をなしさめて達することが出来なければいけない。又諸侯に使ひして能くその使命を果さなければ即ち成命の外機宜の処置を取ることが出来なければ、詩を多く学んだと云つても何の用をもなさぬものである。之れは詩を学んだと云つてもそれは詩を学ばないと等しいものである、と言はれたのである。
子曰。其身正。不令而行。其身不正。雖令不従。【子路第十三】
(子曰く。其の身正しければ、令せずして行はれ、其の身正しからざれば、令すと雖も従はず。)
 本章は、君が正しくなければ民も亦正しくないと云うて戒めたのである。即ち君たるものは、其の身を正しくすれば、命令をしなくとも民は之れに感化して善に移るものである。若しその君にして正しくなかつたならば、如何にその権力を以て命じても民は之に従はないから政治も亦行はれることはないものである。
 孔子の政治に対する主張は、今日の所謂デモクラシーの主張ではなく、君主専制主義とも申すべきものである。故に今日の政治組織から又政治思想から見れば大いに非難する所であらうけれども、政治は決して制度や組織の完全であることによつて能く行はれると決つて居るのではない。所謂孔子の説の如く、君御一人は万民の範となるものでなければならぬし、又、之れを輔弼する臣も正しきことを行ふと云ふことでなければ、如何に制度や組織に於て正しいと云つても、その政治は甘く行はれるものでない。
 之れを仮りに一家の例に取つてもさうではないか。一家長たるものが、自ら進んで正しき事を行へば、家族を挙げて正しきに向はしむることが出来る。処が若し家長が不誠実なことを行つて居ながら一家を正しきに向はしめようとしても、出来るものでもなければ、寧ろ悪しきに傾いて如何とも収拾することが出来ないと云ふことになることは決して珍らしくない。
 今日の政治家と云ふ手合などもさうである。自己自身に於て世にも忌むべき悪徳を行ひつつ、而も人民にのみ正しきを行はしめようとする事は、木に縁つて魚を求むるよりも難きことである。又上流に泥水を流しながら、下流の水が清くなければならぬと言つてもそれは無理である。それよりも先づ己れ自身が品のよい政治を行つて行けば、政治は自ら正しきを期することが出来るものである。唯自己の利益にのみ親切を尽すことは、決して他に親切であると云ふことは出来るものではない。自己にのみ正しいと云ふことは、他にも正しいと云ふことは出来得ないものだ。これなどは現在の日本の政治の状態を見れば直ちに納得が出来ることである。自己の都合のよい政治のみ行つて居るから、少しも政治界は廓清されず、寧ろ乱れて行くと云ふ傾向を示すものだ、此の点などは大いに戒心すべき処である。
子曰。魯衛之政。兄弟也。【子路第十三】
(子曰く。魯衛の政は兄弟なり。)
 本章は孔子は衛の国に望を有つて居つたのであるから、其政治は魯に似寄つて居るから変更することが容易であると言つたのである。これは面白味のある文句ではないやうに思はれる。又此処に兄弟と云ふことに就ては、細かに言へば学者として色々説を立てるかも知れないが、実際家としてはそんなことに拘泥して居つては、面白いものでない。で、此処に順序として魯・衛の両国の関係に就て説明しよう。
 魯は周公の後で、衛は康叔封の後である。そして此の両国の祖先は兄弟で最も睦しかつたし、又政治も能くて、之れも丁度兄弟のやうであつた。処が後世になつてから政治が衰へて徳化が行はれないやうだつたけれども、その遺風が未だあつたので、魯・衛が一変せば道に至らしむることが出来ると言はれたのである。
 元来孔子は相当の年輩になつてから世に立ち、国家社会の為に努力を払つて居つたのである。そして私の想像する処では、自己の栄達富貴などを図る為ではなく、人の人たる本分を尽すことにあつた。故に国家社会の治弊を匡救するに大なる勇気を払つたものであつて、決して自利や功名の為に政略を弄するものでなかつた。即ち国家社会を治めるには、権道ではなくして、王道でなければならぬことを希望したものと思ふ。
 政治は、自己の利益を図り功名を求めるものではいかぬ。一般人民の匡救もかうやつて初めて出来る。政を人に施すと云ふことは、一般人民に善を奨めるといふことに外ならぬからである。そして之れをなすにはその政治を能くやつて行かなければならぬ。若し政治にして正しく行はれると、上下和睦して太平を謳ふことになる。かうなることが政治の主眼でなければならぬ。
 自己の一身の利害得失を考へてやつて居つては、如何に政治の善美なることを望んでも望み得られるものでない。処が、自己の栄達、功名を望んで一般社会の為に図るやうなことは少い。殊に今日の政治家の状態はさうである。口には立派なことを言つて居つても、心は之に反して居る。之れなどは今の政治家の行為を見れば、直ぐ承服の出来ることであらう。
 之れに反して孔子などは、自己の富貴栄達ではなく、寧ろ自己の利益を忘れて国家社会の為に尽さうとした。尤も、孔子は学者ではないが、実際に政治をやらうとした。政治を事実の上に現はさうとした。彼は斉、魯、衛の国にあつて政治に尽さうとしたけれども、何処にも用ひられなかつた。衛には大ひに用ひられ努力をしようとしたが、矢張り大夫の連中が自己の意見に賛成をしなかつたが為に、遂に衛を去るの止むなきに立ち至つた。併し衛を去つても始終衛のことを考へて居られた。是は衛を救ふことが出来ると考へたからである。
子謂衛公子荊。善居室。始有曰。苟合矣。少有曰。苟完矣。富有曰苟美矣。【子路第十三】
(子、衛の公子荊を謂ふ。善く室に居れり。始めて有り曰く、苟《いささ》か合《あつ》まれり。少しく有り曰く、苟か完し。富に有り曰く苟か美なり。)
 本章は公子荊を賞めて、そして家を治むるには足ることを知るにあると云ふことを説いたものである。即ち荊は不足を言はぬ人であると云つて賞めたのである。但しこの位のことはそれ程賞めるに当らないと思ふ。
 孔子は、荊は善く家を治めた人である。家の器物用度などが、始め僅かに必要に応じた丈けあつた時でも、能く集つたと称め、其後それよりも備はつて来たが未だ完備の域まで達して居ないけれども、誠に完備して居ると言つた。又その後それ以上に充足しても、未だ精美ならざるに誠に美であると賞めて居た。之れは常にその境遇に甘んじて足ることを知つて完美なることを求めなかつた。即ち物を求めることの為に、心を労するやうなことをしなかつたと云つて、之れを大いに賞めたのである。
 現に私などもさうである。最初六七円の月給を取つて居た時もあるが、それだからと云つてそれに不足を言つたことがない。言はばそれに満足をして居つたのである。若しも贅沢を考へたならば、到底もあれ丈けの月給をとつて満足などして居られないと思ふ。人は一々不足を論ずると色々言ふことが出来るものである。
 私などと比較して観ると、随分社会公共の為に力を尽さないで、自己の満足を得ることの為に努力をして居るものが多い。これではいかぬと思ふ。程を計つて之れに満足して居なければならぬ。現在に満足して不足を言はぬと云ふ覚悟が必要である。自己の利益の為計りでなく、成るべくは社会公共の為にやると云ふ考へでなければならぬ。自己満足ではなく、社会の満足を得る様にすべきであるが、これは現在に於て却〻少いやうに思ふ。
 併し時代は何時までも自己の満足にのみ停頓しないで、社会公共の満足を得ると云ふ方面に進みつつあるやうに思ふ。この傾向は誠に喜ぶべきことであるが、未だ自己満足を悦ぶものが多い。殊に旧華族の中には、随分自己に厚く社会に薄いものが多い。社会のことと言へば後廻しにして、自己を奉ずることを重んじて居る。此の考へなどは、私共などとは雲泥の相違である。即ち奉仕と言へば、自己一身のことであつて、社会のことなどでない。これでは社会的、共同的に生活して行く人間として、大なる欠点であると言はなければならぬ。
 孔子もこのやうなことを憂へられ、公子荊を賞めたことと思ふ。之れを以て見ても、私共の今の時代も、亦昔の時代も同じやうにこの弊風があつたものと思ふ。
子適衛。冉有僕。子曰。庶矣哉。冉有曰。既庶矣。又何加焉。曰。富之。曰。既富矣。又何加焉。曰。教之。【子路第十三】
(子衛に適《ゆ》く。冉有僕たり。子曰く。庶《おほい》なるかな。冉有曰く。既に庶し、又何をか加へん。曰く。之れを富さん。曰く。既に富めり。又何をか加へん。曰く。之れを教へん。)
 本章は政を施すに順序がある故に、その順序を紊してはならぬことを教へたものである。而してその順序は庶、富、教の三つ階段を経なければならぬと云ふのである。
 孔子が衛の国に往かれた時に、冉有は車を御して居た。そして車上から此の国の人民の蕃殖して居るのを見て、誠に良き国であると歎美された。すると、冉有は、人民が既に蕃殖したとせば、この上如何なる施設をなした方が良からうかと問うた。すると孔子は、之れを富ませばよいと。冉有は又問うて、民が既に富んだならば、其上は如何なる施設をなすべきであらうかと。孔子は、それには之れを教へなければならぬ。人は富んで居つても、教へがなければ禽獣に等しいものである。故に之れを教へて道を知らさなければならぬ。
 如何に人民が蕃殖し、産業が発達して来て国が富んで居つても、人民に教へと云ふものがなければいけない。富と教へは相伴うて進んで行かなければならぬのに、現在の状態を見るに、富んで却つて教へを排斥するやうな形勢をなして居る。併し或はかう云ふ状態を浮世であると称して居るかも知れないが、之れを以て決して諦めさして置くべきものでないと思ふ。
 孔子は二千年の昔に於て、既に富と教へと相並行しなければならぬと教へたことは、今日に於ても猶当嵌まるのである。さうすれば、何れの時代に於ても、人間の間に同じやうな感じを起さして居るものと思ふ。
子曰。苟有用我者。期月而已可也。三年有成。【子路第十三】
(子曰く。苟《いやし》くも我を用ひる者あらば、期月にして已に可なり。三年にして成る有らん。)
 本章は、諸侯が孔子を用ゐて十分にその才能を発揮さしたならば、必ず功を挙げる事が出来ると云ふ事を述べられたものである。併し之れと同時に、その反面に孔子は吾を用ゐるものがないと云ふことを嘆じられたのである。
 即ち孔子の言はるるには、誠に我を用ゐて国政を委任するの諸侯があつたならば、全る一年で略政治の事も緒につき紀綱を張ることも出来るが、それを三年やつたならば、治定まり功なり化が行はれるやうになると言はれた。孔子は単に一種の学問を教へると云ふのみに走るものでなく、事実を行ふこともやられたのである。
 要するに孔子の教への主とする処は、知り且つ行ふと云ふことで、王陽明の所謂知行合一を実際にやられて居つたのである、政治の成績を挙げるには、その国の王者が、単に論理ばかりでなしに実際に一般国民の為に仁政を行つたならば、その国は能く治つて行く訳である。即ち国民の苦痛を救ひ、楽しみを与へることは、孔子の常に考へて居られた事である。
 王道を布き、仁政を行ふと云ふことは、知行合一の実際化したことであるが、此の知り且つ行ふと云ふことは、言ふことは容易であつても、実際は仲々六ケしいものである。為に知り且つ行ふと云ふ説は何時しか忘れられて、知る者は単に知る丈けのことになり、行ふ者は単に行ふと云ふ丈けの事になつた。換言すれば、知る者は学者となつて理論のみに走ることになり、行ふ者は実際家と称して、如何なる道理によつて之れを実際に行はなければならぬかと云ふことを知らずにやると云ふ風になつた。然るに孔子は知と行とは別々に考へなかつた。学問と事実を行ふと云ふことは相並行すべきものとして、種々なる教へを説かれて居つた。
 若しも今日、政党にして、真に正しき考へや正しき知を以て之れを行はんことに心掛けたならば、日本の今日の政治は正しき政治が行はれて居ねばならぬ筈である。正しくないことによつて党の利益を図り党利の為に正しくないことを行ふことは、日本の政党界の現状ではないか。即ち党利の為にある利権を与へ、そして正しくないことを行ふのであるから、何時までも政党は正しきことを行ふことが出来ないやうになる。
 之れは独り政治界はかうであるばかりでなく、経済界にもある。政治に道徳が行はれず、経済にも道徳が行はれて居ない。即ち政治にも経済にも道徳が離れて居つては、政治も経済も順調に進んで行くものでないと思ふ。
子曰。善人為邦百年。亦可以勝残去殺矣。誠哉是言也。【子路第十三】
(子曰。善人、邦を為むること百年。亦以て残に勝ち殺を去るべしと。誠なるかなこの言や。)
 本章は、善人であつても国を治むることが久しければ、能く成功することが出来ると言はれたのである。
 而して此処に言つて居る善人と云ふことは、前の述而篇にある善人と同じ意味で、仁に志して悪意のない人を云ふのである。故に聖人の如く完全な人でなくとも、国の為に尽さうと云ふ志のある人が長くその位に居れば、少くとも残暴の俗を去り、人を殺戮するが如き暴逆のことをなさしめなくてもよいと古語にあるが、之れは誠にその通りであると孔子が言はれたのである。
子曰。如有王者。必世而後仁。【子路第十三】
(子曰く。如し王者あらば、必ず世にして後に仁ならん。)
 本章は王者と云へども歳月を経なければ仁沢が及ぶことが難いと云ふことを言はれたのである。湯武のやうな聖人が出ても、今日の如き礼楽倫理の乱れた世には之れを治むることは容易でない。併し聖人が三十年の久しきに亘つて治めたならば、治化成就して国民を帰服せしむることが出来るであらうと言はれた。
 明治の政治も五十年の久しきに亘つたのであるが、その政治の成績が期待したやうに甘く進んで行かないのは、その政治の職に当るものが良くないからである。御聡明なる明治大帝を上に戴いてさへも斯の如き状態である。之れを思うても、孔子の言の今更の如く感ぜざるを得ない。
 如何に偉い人が政治に当つたとしても、之れに借すに永い時日を以てしないと、到底その功を奏することは出来るものでない。後藤子爵は如何に偉いと云つても、東京市政に携つたのは僅かに三年である。此の僅かの期間で、あの複雑した市政を爕理し、自己の抱負を行ふことは至難なものである。故に政治をなすには宜しくその久しきに堪へ一世にして仁ならんの覚悟を有するものでなければならぬ。
子曰。苟正其身矣。於従政乎何有。不能正其身。如正人何。【子路第十三】
(子曰く。苟くも其の身を正しくせば。政に従ふに於て何かあらん。其の身を正しくする能はずんば、人を正しくすることを如何ん。)
 本章は、政はその人の人格に基づくものであると云ふことを言はれたのである。即ち政治なるものは、其の身を正しくしてから、国民を正しくすべきものである。前章にある君が正しいと国民は感化されて令せずとも行はれるが、若し君が正しくないと、令しても行はれることがないと云ふことと同様である。
 之れは独り君ばかりではなく、政治を取扱ふ大夫でも、誠に其の身が正しくなければ国民をして正しきに向はしむることが出来ないものである。言ひ換へれば政治の根本は己れを正しくして人を導くと云ふことでなければならぬ。このやうに孔子の教へは必ずその根源を遡つて行く。如何に政治の仕方丈け能く出来ても、その心にして正しくなければ、政治の成績は決して挙がるものでない。曾つて季康子は盗賊の多く出ることを患ひて、之れを除かんことを孔子に請うたことがある。然るに孔子は之れに答へて、子にして正しきを行つたならば、之れを賞しても盗するものはないと言はれたことがあるが、茲もそれと同様の意義を有つて居る。
 併しながら斯の如き政治は、政治史上から見れば、或は古いと云ふかも知れないが、実際政治にあたるものが正しきことを行はないやうでは、国民をして正しきに就かしむることは出来るものでない。今日の政治は、孔子の所謂政治と比較すれば殆ど完全した形式を備へて居る。けれども実際にその政治を見ると決して正しくない。之れは政治の精神を見ないで、単に形式のみ完全にしようとするからである。この精神を忘れて居ることは、悪い政治が止まないことになる。
 若し幸ひに学問の進んだ国でその主脳の人にして立派な人であればその国の政治も亦その通りになる。個人の権利のみ主張すると言はれて居る米国にも、ワシントンやリンコルンの如き人格者が出た。この時代は一体に純朴なもので、今日の如く軽薄なものでないと思ふ。
 又現在の大統領ハーディング氏の如きも、実に敬服に値する人と思ふ。或は嫌ひな人は彼是非難を加へるかも知れないが、国家を重じ道義を尊び、信仰に厚く、そして社会の中心に立つて活動する。ハーディングのみならずこのやうな人は米国には多いやうに思ふ。然るに日本は之れに反して居るのは非常に遺憾なことである。日本国民なども茲に顧みる所がなければならぬ。殊に上流にあるものは、特に深甚なる注意を払ふことが必要である。
冉子退朝。子曰。何晏也。対曰。有政。子曰。其事也。如有政。雖不吾以。其与聞之。【子路第十三】
(冉子朝より退く。子曰く。何ぞ晏《おそ》きや。対へて曰く。政あり。子曰く。其れ事ならん。如し政あらば、吾を以《もち》ゐずと雖も、吾其れ之れを与り聞かん。)
 本章は冉有に諷して季氏の擅横を抑へようとしたものである(冉子は冉有のこと)。冉有は季氏に仕へて居つたが、ある日役所から帰つて来ることが遅かつたので、孔子は之れに、何故に今日はこんなに遅い帰りであるかを問うた。すると冉有は、政があつたので遅れたのだと答へた。然るに孔子は冉有に言ふには、それは違ふであらう。若し本当に国政であるならば、私は今用ゐられないで居るけれども、その政務には参与すべきものである。私の知らぬ所を見ると、国政ではなくして季氏の私事であらうと。少しも知らぬ真似をして季氏の専横を諷したものである。
 このやうな例は独り冉有にのみ見る訳のものでなく、会社や銀行などにも多い事実である。その会社や銀行の重役などは支配人を自宅に呼んでやることが多い。そして公の事も私の事のやうに思うてやる。公の事を私の事のやうにやることは悪いことで、これが為に種々な弊害が出来たりする。
 公の事を私の事のやうにしてやると、其処に権利が伴つて来る。権利が出来ると道理のあることをも忘れるもので、之れは丁度一方を進めると他の一方が曲るものである。公の事は朝に於てすべきもので、私邸などでやるべきものでない。所謂公私を混淆すべきものでない。然るに、此の公私を混淆する銀行会社は、比々皆然りと云ふ有様である。今冉有の季氏に対する関係は、銀行会社にすると、冉有は専務取締役で、孔子は平取締役と云ふ形になつて居る。そして冉有は種々な機密にも参与して居るが、孔子は其名のみ有して居るやうなものである。そして之れが季氏の擅横の俑をなすべきものであるが為に、孔子は冉有を諷して之れを戒めたのである。
 論語の文章に面白味のあるのは、その言ひ現はし方の直截的でなく平易に婉曲に言ひ現はして居る所に、論語の特長を見るべきである。又其処に味ふべき点もある。之れを以て見ても、孔子は如何に温順玉の如き人格の所有者であるかを知るべきである。
 言葉が過激であると、一種の痛快味を覚えぬでもないが、併しそれは一時的のもので、決して持続性を有つものでない。処が、このやうなおとなしい言葉は、その当時は何となく物足りなさを感ぜぬでもないが、噛みしめて見ると段々甘みが出来る。之れが論語の幾時代を経過しても珍重せられる所以である。明治大帝などのお言葉の中にもこのやうなお言葉はあると思ふけれども、私などの之れを洩れ承る身分でないから知ることが出来ないが、要するに賢君にはかう云ふ言葉が多いものである。
 一体に言葉の遣ひ方が過激に亘らないものは余韻のあるもので、余りきちんとして居る言葉は人を動かすことは少いものである。少しも余裕がないと窮屈の感を起すものである。
定公問。一言而可以興邦有諸。孔子対曰。言不可以若是其幾也。人之言曰。為君難。為臣不易。如知為君之難也。不幾乎一言而興邦乎。曰。一言而可以喪邦有諸。孔子対曰。言不可以若是其幾也。人之言曰。予無楽乎為君。唯其言而莫予違也。如其善而莫之違也。不亦善乎。如不善而莫之違也。不幾乎一言而喪邦乎。【子路第十三】
(定公問ふ。一言にして以て邦を興すべき諸《これ》ありや。孔子対へて曰く。言以て是の如くそれ幾《ちか》くすべからず。人の言に曰く。君たるは難く、臣たるは易からずと。如《も》し君たるの難きを知らば、一言にして邦を興すに幾からずや。曰く。一言にして邦を喪ぼすべき諸ありや。孔子対へて曰、言以て是の如くそれ幾すべからず。人の言に曰く、予君たるより楽しきはなし、唯それ言うて予に違ふ事莫ければなりと。如し其れ善にして之に違ふことなければ、亦善からずや。如し不善にして之に違ふことなければ、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや。)
 本章は、人の君たるものにして一言で邦を興したり、喪したりすることが出来るかを問うたのである。即ち魯の定公は孔子に、人君の一言で邦を興すことが出来るかと問うた。然るに孔子はそれに対へて、一言でそれは必ず国が興隆するものだと云ふ言葉はないが、国を興隆するに近くする言葉はある。世人の云ふ言葉に、君となる難し、臣となる易からずと云ふ言葉があるが、此の一言で邦を興すに近からしむることが出来る。
 然るに又定公は更に孔子に、一言で邦を亡すに足る言葉がありませうかと問うたのに対して、世人の言葉に、予は君となるを楽しむことはないが、唯予に背く者がないのが楽しいと。併しそれが善であつて違ふことない時には宜しいけれども、若し不善があつても背くことがなかつたならば、この一言で邦を亡すことになるやうに思はれる、と言はれたのである。阿諛諂言あつて忠言のない時は、君の心驕り、遂に人心を去らしむるからである。
葉公問政。子曰。近者説。遠者来。【子路第十三】
(葉公政を問ふ。子曰く、近き者説《よろこ》び、遠き者来る。)
 本章は政治をなすに順序あることを説かれたのである。即ち政治をなすには先づ近き者から徳を施して悦服せしむると、遠き者もその徳を慕うて来るものである。故に必ず近きより始めなければならぬ。けれども仲々その順序は正しく運ばれて行かない。私などの如く個人であると、家族、朋友、社会と云ふ順序を辿らなければならぬものである。大学にも「物に本末あり、事に終始あり、先後する処を知れば即ち道に近し」とあるのも、近きより遠きに及ぼせと云ふことを教へたのである。
 処が之れを実際になつて見ると仲々六ケ敷い。私などもどちらかと云へば、家を粗略にして人の事を重んずる傾きがある。その順序を謬らず均衡宜しきを得ると云ふことは望ましいことであるが、仲々六ケ敷しい。言はば内が主となり勝ちになつたり、外が主となり勝ちになつたりして能く行かぬものである。私なども実際一方に偏して居ることを知つて居ても之れを矯正して均衡宜しきに至り兼ねて居る。君の国を治めるにその順序を正しくする事は六ケしいものとされて居る。
子夏為莒父宰。問政。子曰。無欲速。無見小利。欲速則不達。見小利則大事不成。【子路第十三】
(子夏莒父の宰となり、政を問ふ。子曰く、速ならんを欲することなかれ。小利を見ることなかれ。速ならんと欲すれば即ち達せず、小利を見れば即ち大事ならず。)
 本章は政治の速なるを欲したり、小利に囚はれたりすることの不可なるを説いたものである。子夏が莒父の宰となつた時に、政治はどうすればよいかを孔子に問うた。すると孔子は、政治をなすには事を速にしようとしてはいかぬ。又目前の小利に目が眩むやうではいかぬ。早く事を仕遂げようとすれば、却つて政治の目的を達することが出来ないことになる。諺に急がば廻れと云ふことは、急ぐことによつて事の成らざるを誡めたのである。目前の小利にクヨクヨしたが為に、折角の大事もなし遂げることが出来ずに仕舞ふものである。
 斯の如き速成、小利の為に失敗を招くのは、独り政治上ばかりでなく、経済界、銀行、会社などの事業にも多く見る事実である。私は実例に就ての指示を憚るけれども、如何に此の事によつて、銀行、会社の任務を果すことが出来なかつたり、或はそのやうな境遇に置かれたものは少くないと思ふ。私は急ぐことによつて大事を誤ることが多いと思ふし、又小利の為に大局を見ることが出来なかつたりする、故に事々物々に就ても此の速成、小利と云ふことは大禁物である。
葉公語孔子曰。吾党有直躬者。其父攘羊。而子証之。孔子曰。吾党之直者異於是。父為子隠。子為父隠。直在其中矣。【子路第十三】
(葉公孔子に語つて曰く。吾が党に、躬を直くするものあり。其の父羊を攘《ぬす》めり。而して子之れを証すと。孔子曰く、吾党の直きは是れと異り、父は子の為に隠し、子は父の為めに隠す。直きは其の中にあり。)
 本章は父子の間の情理を説いたものである。葉公は孔子に語つて言ふには、吾郷に正直者で、躬を直くする者があつた。其の父が他家の羊が迷ひ来たのを隠した[隠して]置いた。処が子は自分の父が攘んだと云ふことを証拠立てた、之れは誠に正直者ではなからうかと言つた。すると孔子は、吾が郷の正直者と云ふものはこんなものでなく、子としては父の罪を隠し、父としては子の罪を隠すやうにして居る。罪を隠すのは不正直のやうであるけれども、父子相隠すのは真理であるから、直きに自らその中にある、ものであると説かれたのである。
 孔子のこの父子の情を説いたのは、極く人情に適つたものである。子は父の為にその罪を隠し、父は子の為に隠すのは当然のことであつて、子が父の悪事を訴ふると云ふことは、決して人情に適つたことではない。若し父にして悪い事があつたならば、人に知られん中に之れを矯正するやうにすべきものであつて、決してそれを現はすべきものでない。
 白河楽翁の如き、徳川慶喜の如き、君父の過ちを現はさないやうに努めた。家斉の仕方の悪い所は、矯正をしたり、自分は自らその責めに任じた。殊に楽翁の苦心をされたのは、家斉生父の尊号問題で、名分の為に之れを拒絶し家斉を過たしめないのは、楽翁の力と言はなければならぬ。又慶喜の如きも、徳川の到底回復せしむることの不可なるを知るや、徳川の悪い所をいはず一に自己の罪に帰したるが如きは皆人情に適した処為と称せねばならぬ。
 然るに今日は仲々そんなものでない。自己の利益にさへなれば、それが人情に適しないことであつてもかまはずに騒ぐことが多い。殊に甚だしいのは今日の政党者流で、政友会でも憲政会でも、皆さうである。ワイワイ騒いだ結果が国辱にならうが国の不利とならうが、そんなことはそつちのけにして敢て暴露を試みようとする、訐き合ひをしよう[と]する。そしてその結果が国利に如何の影響があるかなどは、殆ど彼等の知らない所と云つてもよい位である。
 このやうな傾向が段々重つて行くと、人間社会に人情味と云ふものがなくなる。この位殺風景なものはないと思ふ。
樊遅問仁。子曰。居処恭。執事敬。与人忠。雖之夷狄。不可棄也。【子路第十三】
(樊遅、仁を問ふ。子曰く。居処には恭に、事を執りては敬、人と与して忠ならば、夷狄に之くと雖も棄つべからず。)
 本章は仁の徳を恭、敬、忠の三段に説いたものである。即ち樊遅が孔子に対つて仁を問うたのに対して、平生何事をなさぬ時でも、恭謹でなければならぬ。又事に当つて為す時には、専心で、決して粗略であつてはならぬ。集中無敵と云ふことは、事に当つて敬であつて始め[て]出来ることである。又人に交るに忠信でなければならぬ。忠は忠恕とも忠信とも云つて、文字の如く忠にあることである。人は苟もこの仁の心を以て居れば、礼儀も道もない夷狄の地へ行つても、棄てられることはない、と説かれた。
 然らば、之れを今日の人に対しては如何なる考へがよいかと云ふに勿論仁のみならず、色々欠陥はあるけれども、今日の場合も之れがよいかと思はれる。
 事がなくて家に居る場合でもあくせくして少しもゆつたりして居ることがない。私なども常に仁を心掛けて居ながら、居処恭の境地に達することが出来ず、この老人になつても家に居ることが出来ない状態である。併しながら外に出て事を執つては敬に、人と交はるに忠なることを期して居る。
 己れさへ仁を行へば、夷狄でも之れを棄てることはないと言はれて居るが、之れは必ずしもさうとのみ云ふことは出来ない。己れがさうすれば、人も亦さうなることもあるが、又ならないこともある。個人と個人との間には或は能く行はれて行くこともあるけれども、国と国との間は仲々さう云ふ訳にのみ行くことが出来ない。
 支那人の心はどうであらうか、折角こつちが仁を以て彼に対しても彼は我に対する態度はどんなであらうか、寧ろ実際は我を侮蔑することがないだらうか。之れを卑近の例にとつて見ると、強い怒を見せて居ると恐縮して居るが、弱くして居ると軽蔑して来ると云ふことは能くあることである。支那の国なども、矢張りそんなものでないだらうか。
 故に仁を施すにも適度と云ふことを考へてやらなければならない。さうでないと折角の仁も何等功がないばかりでなく、反対の現象を呈すことがないとも限らぬ。
 併しながら国の政治や経済は、仁を基調として進むべきものであるが、忠を施したが為に侮慢を受けることもあるから、此の点は十分に心すべきである。
子貢問曰。何如斯可謂之士矣。子曰。行己有恥。使於四方。不辱君命。可謂士矣。曰。敢問其次。曰。宗族称孝焉。郷党称弟焉。曰。敢問其次。曰。言必信。行必果。硜硜然小人哉。抑亦可以為次矣。曰。今之従政者。何如。子曰。噫。斗筲之人。何足算也。【子路第十三】
(子貢問うて曰く、何如なる斯れ士と謂ふべきか。子曰く、己れを行うて恥あり、四方に使して君命を辱しめず、士と謂べし。曰く、敢てその次を問はん。子曰く、宗族孝を称し、郷党弟を称す。曰く敢てその次を問はん。子曰く、言必ず信。行ひ必ず果。硜硜然として小人なるかな。抑〻亦以て次と為すべし。曰く、今の政に従ふものは如何。子曰く、噫、斗筲の人何ぞ算ふるに足らん。)
 本章は、士の徳に三等あるを聴いたものである。子貢がどう云ふ程合の人が士と云ふものであらうかと問うたのに対し、己れ一身を判ずるに正しきを得て恥ない外に、外に使ひをして君命を恥かしめない、即ち彼をして敬聴心服せしむるものを士と云ふのだ、と。其の次を問うたのに対して、親族が其の孝を称め、郷党がその弟を称むる人であるのは先づ士と云ふことが出来るであらう、と。又其の次を問ふと、子は一度び言つたことは必ず真実であり、行ふことは必ず果たすと云ふのは、時に応じ変に処することに欠けて居て、小石の堅いやうなもので大用をすることは出来ないけれども、志操堅く己れを守ることが堅いから、之も士と云ふことが出来るであらう、と。
 然るに子貢は更に今日の政治に従つて居るものはどんなものでせうか、と問うた。すると孔子は嘆息をして、今の政治に従ふものは、小器のもののみで到底論ずるに足るものが居ないと言はれた。
 翻つて今日の日本の政治を見たならば何と云ふであらうか。勿論推測するより外はないが、孔子はお世辞を云ふとは思はれぬから、或は斗筲の人などと云ふやうなことはないかと思はれる。
 実際その政治の有様を見て居れば、内閣総理大臣にしてもその他の政治の衝に当つて居るものでも、どうも斗筲の輩と言はれはしないかと思はれる。かう云ふ人達によつて政治をされて居つては、決して一国の政治も甘く行くものでない。
子曰。不得中行而与之。必也狂狷乎。狂者進取。狷者有所不為也。【子路第十三】
(子曰く。中行を得て而してこれに与せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進取し、狷者は為さざる所あり。)
 本章は、中道を得た人は少いことを嘆ぜられたのである。孔子は中道を得た人は至つて少いものであるから、共に学ぶことが出来ない。若し他に之れを求めると狂者か狷者の二者に過ぎない。そして狂者は志は大で進取の念が盛んであり、狷者はその知は未だ足らないが志操堅くして不善をなさないのである。所謂狂者は過ぎ、狷者は及ばざることである。琴張、曾晳、牧皮の如きものは孔子の所謂狂者である。
 故に狂狷の両者は何れも中道を得たのでないから一方は押へ、一方は進めて行くと云ふ方針を取つて行かなければならない。これは今日の時代ばかりではなく、何時の時代に於ても、こんな有様のものが多かつたし、孔子も既にかく嘆声を発せられたことからしても、如何に中道を得た人を求めることが出来ないかを知ることが出来る。
 今日などでは、思想界はかうなつて居るからかうしなければならぬと云つて、新聞や雑誌などに堂々と論じて居る人々は仲々に多い。その言ふことなども実に立派なもので大いに敬聴に値するものもないではないが、併しその人の実際はどうか、言ふことと行ふことが一致して居るであらうか、若し言うて行ふことが出来なければ、さう云ふ者は狂者と云ふべきである。自己の行ひはどうあつても、かうすることは社会の為であるからかうしなければならぬとするのは狂者に属するものと思ふ。
 之れに反して社会とか国家とか云ふことよりも、己れの行ひを直す為に学びも習ひもすると云ふのがある。これは彼の修養団と云ふやうなもので、他の為と云ふよりも自己の為に努力をすると云ふのであるから、之れは所謂狂者に対して狷者とも云ふべきものであらう。
 併し之れは大体から見て云つたことで、劃然と之れは狂でそれは狷であると云ふことは出来ない。けれども、一方は進み、一方は守るに傾くものであるから、之れを一方に偏らせると孔子の中道を得ることは出来ないことになる。故に余り進みもしない又守りに陥ると云ふことのないやうにすべきである。
 殊に今の時代に於ては中道を得ることに努むべきものと思はれる。何となれば、一方には進んで止まないと云ふやうなものがあるかと思ふと他方には守る方にのみ偏して居る。かうなつては社会は極端に走る事になつて、中道を得ないことになるからである。是等の事実は茲に明かにしなくとも世人の既に熟知して居ることであると思ふ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)