デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

23. 狂狷と中道の人

きょうけんとちゅうどうのひと

(65)-23

子曰。不得中行而与之。必也狂狷乎。狂者進取。狷者有所不為也。【子路第十三】
(子曰く。中行を得て而してこれに与せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進取し、狷者は為さざる所あり。)
 本章は、中道を得た人は少いことを嘆ぜられたのである。孔子は中道を得た人は至つて少いものであるから、共に学ぶことが出来ない。若し他に之れを求めると狂者か狷者の二者に過ぎない。そして狂者は志は大で進取の念が盛んであり、狷者はその知は未だ足らないが志操堅くして不善をなさないのである。所謂狂者は過ぎ、狷者は及ばざることである。琴張、曾晳、牧皮の如きものは孔子の所謂狂者である。
 故に狂狷の両者は何れも中道を得たのでないから一方は押へ、一方は進めて行くと云ふ方針を取つて行かなければならない。これは今日の時代ばかりではなく、何時の時代に於ても、こんな有様のものが多かつたし、孔子も既にかく嘆声を発せられたことからしても、如何に中道を得た人を求めることが出来ないかを知ることが出来る。
 今日などでは、思想界はかうなつて居るからかうしなければならぬと云つて、新聞や雑誌などに堂々と論じて居る人々は仲々に多い。その言ふことなども実に立派なもので大いに敬聴に値するものもないではないが、併しその人の実際はどうか、言ふことと行ふことが一致して居るであらうか、若し言うて行ふことが出来なければ、さう云ふ者は狂者と云ふべきである。自己の行ひはどうあつても、かうすることは社会の為であるからかうしなければならぬとするのは狂者に属するものと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)