デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

22. 斗筲の輩と政治家

とそうのやからとせいじか

(65)-22

子貢問曰。何如斯可謂之士矣。子曰。行己有恥。使於四方。不辱君命。可謂士矣。曰。敢問其次。曰。宗族称孝焉。郷党称弟焉。曰。敢問其次。曰。言必信。行必果。硜硜然小人哉。抑亦可以為次矣。曰。今之従政者。何如。子曰。噫。斗筲之人。何足算也。【子路第十三】
(子貢問うて曰く、何如なる斯れ士と謂ふべきか。子曰く、己れを行うて恥あり、四方に使して君命を辱しめず、士と謂べし。曰く、敢てその次を問はん。子曰く、宗族孝を称し、郷党弟を称す。曰く敢てその次を問はん。子曰く、言必ず信。行ひ必ず果。硜硜然として小人なるかな。抑〻亦以て次と為すべし。曰く、今の政に従ふものは如何。子曰く、噫、斗筲の人何ぞ算ふるに足らん。)
 本章は、士の徳に三等あるを聴いたものである。子貢がどう云ふ程合の人が士と云ふものであらうかと問うたのに対し、己れ一身を判ずるに正しきを得て恥ない外に、外に使ひをして君命を恥かしめない、即ち彼をして敬聴心服せしむるものを士と云ふのだ、と。其の次を問うたのに対して、親族が其の孝を称め、郷党がその弟を称むる人であるのは先づ士と云ふことが出来るであらう、と。又其の次を問ふと、子は一度び言つたことは必ず真実であり、行ふことは必ず果たすと云ふのは、時に応じ変に処することに欠けて居て、小石の堅いやうなもので大用をすることは出来ないけれども、志操堅く己れを守ることが堅いから、之も士と云ふことが出来るであらう、と。
 然るに子貢は更に今日の政治に従つて居るものはどんなものでせうか、と問うた。すると孔子は嘆息をして、今の政治に従ふものは、小器のもののみで到底論ずるに足るものが居ないと言はれた。
 翻つて今日の日本の政治を見たならば何と云ふであらうか。勿論推測するより外はないが、孔子はお世辞を云ふとは思はれぬから、或は斗筲の人などと云ふやうなことはないかと思はれる。
 実際その政治の有様を見て居れば、内閣総理大臣にしてもその他の政治の衝に当つて居るものでも、どうも斗筲の輩と言はれはしないかと思はれる。かう云ふ人達によつて政治をされて居つては、決して一国の政治も甘く行くものでない。

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デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)