デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

7. 社会公共の満足を図れ

しゃかいこうきょうのまんぞくをはかれ

(65)-7

子謂衛公子荊。善居室。始有曰。苟合矣。少有曰。苟完矣。富有曰苟美矣。【子路第十三】
(子、衛の公子荊を謂ふ。善く室に居れり。始めて有り曰く、苟《いささ》か合《あつ》まれり。少しく有り曰く、苟か完し。富に有り曰く苟か美なり。)
 本章は公子荊を賞めて、そして家を治むるには足ることを知るにあると云ふことを説いたものである。即ち荊は不足を言はぬ人であると云つて賞めたのである。但しこの位のことはそれ程賞めるに当らないと思ふ。
 孔子は、荊は善く家を治めた人である。家の器物用度などが、始め僅かに必要に応じた丈けあつた時でも、能く集つたと称め、其後それよりも備はつて来たが未だ完備の域まで達して居ないけれども、誠に完備して居ると言つた。又その後それ以上に充足しても、未だ精美ならざるに誠に美であると賞めて居た。之れは常にその境遇に甘んじて足ることを知つて完美なることを求めなかつた。即ち物を求めることの為に、心を労するやうなことをしなかつたと云つて、之れを大いに賞めたのである。
 現に私などもさうである。最初六七円の月給を取つて居た時もあるが、それだからと云つてそれに不足を言つたことがない。言はばそれに満足をして居つたのである。若しも贅沢を考へたならば、到底もあれ丈けの月給をとつて満足などして居られないと思ふ。人は一々不足を論ずると色々言ふことが出来るものである。
 私などと比較して観ると、随分社会公共の為に力を尽さないで、自己の満足を得ることの為に努力をして居るものが多い。これではいかぬと思ふ。程を計つて之れに満足して居なければならぬ。現在に満足して不足を言はぬと云ふ覚悟が必要である。自己の利益の為計りでなく、成るべくは社会公共の為にやると云ふ考へでなければならぬ。自己満足ではなく、社会の満足を得る様にすべきであるが、これは現在に於て却〻少いやうに思ふ。
 併し時代は何時までも自己の満足にのみ停頓しないで、社会公共の満足を得ると云ふ方面に進みつつあるやうに思ふ。この傾向は誠に喜ぶべきことであるが、未だ自己満足を悦ぶものが多い。殊に旧華族の中には、随分自己に厚く社会に薄いものが多い。社会のことと言へば後廻しにして、自己を奉ずることを重んじて居る。此の考へなどは、私共などとは雲泥の相違である。即ち奉仕と言へば、自己一身のことであつて、社会のことなどでない。これでは社会的、共同的に生活して行く人間として、大なる欠点であると言はなければならぬ。
 孔子もこのやうなことを憂へられ、公子荊を賞めたことと思ふ。之れを以て見ても、私共の今の時代も、亦昔の時代も同じやうにこの弊風があつたものと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)