デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

8. 富と教へと並行せよ

とみとおしえとへいこうせよ

(65)-8

子適衛。冉有僕。子曰。庶矣哉。冉有曰。既庶矣。又何加焉。曰。富之。曰。既富矣。又何加焉。曰。教之。【子路第十三】
(子衛に適《ゆ》く。冉有僕たり。子曰く。庶《おほい》なるかな。冉有曰く。既に庶し、又何をか加へん。曰く。之れを富さん。曰く。既に富めり。又何をか加へん。曰く。之れを教へん。)
 本章は政を施すに順序がある故に、その順序を紊してはならぬことを教へたものである。而してその順序は庶、富、教の三つ階段を経なければならぬと云ふのである。
 孔子が衛の国に往かれた時に、冉有は車を御して居た。そして車上から此の国の人民の蕃殖して居るのを見て、誠に良き国であると歎美された。すると、冉有は、人民が既に蕃殖したとせば、この上如何なる施設をなした方が良からうかと問うた。すると孔子は、之れを富ませばよいと。冉有は又問うて、民が既に富んだならば、其上は如何なる施設をなすべきであらうかと。孔子は、それには之れを教へなければならぬ。人は富んで居つても、教へがなければ禽獣に等しいものである。故に之れを教へて道を知らさなければならぬ。
 如何に人民が蕃殖し、産業が発達して来て国が富んで居つても、人民に教へと云ふものがなければいけない。富と教へは相伴うて進んで行かなければならぬのに、現在の状態を見るに、富んで却つて教へを排斥するやうな形勢をなして居る。併し或はかう云ふ状態を浮世であると称して居るかも知れないが、之れを以て決して諦めさして置くべきものでないと思ふ。
 孔子は二千年の昔に於て、既に富と教へと相並行しなければならぬと教へたことは、今日に於ても猶当嵌まるのである。さうすれば、何れの時代に於ても、人間の間に同じやうな感じを起さして居るものと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)