19. 君父の過ちを現はさぬ名君
くんぷのあやまちをあらはさぬめいくん
(65)-19
葉公語孔子曰。吾党有直躬者。其父攘羊。而子証之。孔子曰。吾党之直者異於是。父為子隠。子為父隠。直在其中矣。【子路第十三】
(葉公孔子に語つて曰く。吾が党に、躬を直くするものあり。其の父羊を攘《ぬす》めり。而して子之れを証すと。孔子曰く、吾党の直きは是れと異り、父は子の為に隠し、子は父の為めに隠す。直きは其の中にあり。)
本章は父子の間の情理を説いたものである。葉公は孔子に語つて言ふには、吾郷に正直者で、躬を直くする者があつた。其の父が他家の羊が迷ひ来たのを隠した[隠して]置いた。処が子は自分の父が攘んだと云ふことを証拠立てた、之れは誠に正直者ではなからうかと言つた。すると孔子は、吾が郷の正直者と云ふものはこんなものでなく、子としては父の罪を隠し、父としては子の罪を隠すやうにして居る。罪を隠すのは不正直のやうであるけれども、父子相隠すのは真理であるから、直きに自らその中にある、ものであると説かれたのである。(葉公孔子に語つて曰く。吾が党に、躬を直くするものあり。其の父羊を攘《ぬす》めり。而して子之れを証すと。孔子曰く、吾党の直きは是れと異り、父は子の為に隠し、子は父の為めに隠す。直きは其の中にあり。)
孔子のこの父子の情を説いたのは、極く人情に適つたものである。子は父の為にその罪を隠し、父は子の為に隠すのは当然のことであつて、子が父の悪事を訴ふると云ふことは、決して人情に適つたことではない。若し父にして悪い事があつたならば、人に知られん中に之れを矯正するやうにすべきものであつて、決してそれを現はすべきものでない。
白河楽翁の如き、徳川慶喜の如き、君父の過ちを現はさないやうに努めた。家斉の仕方の悪い所は、矯正をしたり、自分は自らその責めに任じた。殊に楽翁の苦心をされたのは、家斉生父の尊号問題で、名分の為に之れを拒絶し家斉を過たしめないのは、楽翁の力と言はなければならぬ。又慶喜の如きも、徳川の到底回復せしむることの不可なるを知るや、徳川の悪い所をいはず一に自己の罪に帰したるが如きは皆人情に適した処為と称せねばならぬ。
然るに今日は仲々そんなものでない。自己の利益にさへなれば、それが人情に適しないことであつてもかまはずに騒ぐことが多い。殊に甚だしいのは今日の政党者流で、政友会でも憲政会でも、皆さうである。ワイワイ騒いだ結果が国辱にならうが国の不利とならうが、そんなことはそつちのけにして敢て暴露を試みようとする、訐き合ひをしよう[と]する。そしてその結果が国利に如何の影響があるかなどは、殆ど彼等の知らない所と云つてもよい位である。
このやうな傾向が段々重つて行くと、人間社会に人情味と云ふものがなくなる。この位殺風景なものはないと思ふ。
- キーワード
- 君父, 父, 過ち, 名君
- 論語章句
- 【子路第十三】 葉公語孔子曰、吾党有直躬者。其父攘羊、而子証之。孔子曰、吾党之直者異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。
- デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)