デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

5. 君主専制と今日の政治家

くんしゅせんせいとこんにちのせいじか

(65)-5

子曰。其身正。不令而行。其身不正。雖令不従。【子路第十三】
(子曰く。其の身正しければ、令せずして行はれ、其の身正しからざれば、令すと雖も従はず。)
 本章は、君が正しくなければ民も亦正しくないと云うて戒めたのである。即ち君たるものは、其の身を正しくすれば、命令をしなくとも民は之れに感化して善に移るものである。若しその君にして正しくなかつたならば、如何にその権力を以て命じても民は之に従はないから政治も亦行はれることはないものである。
 孔子の政治に対する主張は、今日の所謂デモクラシーの主張ではなく、君主専制主義とも申すべきものである。故に今日の政治組織から又政治思想から見れば大いに非難する所であらうけれども、政治は決して制度や組織の完全であることによつて能く行はれると決つて居るのではない。所謂孔子の説の如く、君御一人は万民の範となるものでなければならぬし、又、之れを輔弼する臣も正しきことを行ふと云ふことでなければ、如何に制度や組織に於て正しいと云つても、その政治は甘く行はれるものでない。
 之れを仮りに一家の例に取つてもさうではないか。一家長たるものが、自ら進んで正しき事を行へば、家族を挙げて正しきに向はしむることが出来る。処が若し家長が不誠実なことを行つて居ながら一家を正しきに向はしめようとしても、出来るものでもなければ、寧ろ悪しきに傾いて如何とも収拾することが出来ないと云ふことになることは決して珍らしくない。
 今日の政治家と云ふ手合などもさうである。自己自身に於て世にも忌むべき悪徳を行ひつつ、而も人民にのみ正しきを行はしめようとする事は、木に縁つて魚を求むるよりも難きことである。又上流に泥水を流しながら、下流の水が清くなければならぬと言つてもそれは無理である。それよりも先づ己れ自身が品のよい政治を行つて行けば、政治は自ら正しきを期することが出来るものである。唯自己の利益にのみ親切を尽すことは、決して他に親切であると云ふことは出来るものではない。自己にのみ正しいと云ふことは、他にも正しいと云ふことは出来得ないものだ。これなどは現在の日本の政治の状態を見れば直ちに納得が出来ることである。自己の都合のよい政治のみ行つて居るから、少しも政治界は廓清されず、寧ろ乱れて行くと云ふ傾向を示すものだ、此の点などは大いに戒心すべき処である。

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デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)