デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

13. 精神を忘れた形式政治

せいしんをわすれたけいしきせいじ

(65)-13

子曰。苟正其身矣。於従政乎何有。不能正其身。如正人何。【子路第十三】
(子曰く。苟くも其の身を正しくせば。政に従ふに於て何かあらん。其の身を正しくする能はずんば、人を正しくすることを如何ん。)
 本章は、政はその人の人格に基づくものであると云ふことを言はれたのである。即ち政治なるものは、其の身を正しくしてから、国民を正しくすべきものである。前章にある君が正しいと国民は感化されて令せずとも行はれるが、若し君が正しくないと、令しても行はれることがないと云ふことと同様である。
 之れは独り君ばかりではなく、政治を取扱ふ大夫でも、誠に其の身が正しくなければ国民をして正しきに向はしむることが出来ないものである。言ひ換へれば政治の根本は己れを正しくして人を導くと云ふことでなければならぬ。このやうに孔子の教へは必ずその根源を遡つて行く。如何に政治の仕方丈け能く出来ても、その心にして正しくなければ、政治の成績は決して挙がるものでない。曾つて季康子は盗賊の多く出ることを患ひて、之れを除かんことを孔子に請うたことがある。然るに孔子は之れに答へて、子にして正しきを行つたならば、之れを賞しても盗するものはないと言はれたことがあるが、茲もそれと同様の意義を有つて居る。
 併しながら斯の如き政治は、政治史上から見れば、或は古いと云ふかも知れないが、実際政治にあたるものが正しきことを行はないやうでは、国民をして正しきに就かしむることは出来るものでない。今日の政治は、孔子の所謂政治と比較すれば殆ど完全した形式を備へて居る。けれども実際にその政治を見ると決して正しくない。之れは政治の精神を見ないで、単に形式のみ完全にしようとするからである。この精神を忘れて居ることは、悪い政治が止まないことになる。
 若し幸ひに学問の進んだ国でその主脳の人にして立派な人であればその国の政治も亦その通りになる。個人の権利のみ主張すると言はれて居る米国にも、ワシントンやリンコルンの如き人格者が出た。この時代は一体に純朴なもので、今日の如く軽薄なものでないと思ふ。
 又現在の大統領ハーディング氏の如きも、実に敬服に値する人と思ふ。或は嫌ひな人は彼是非難を加へるかも知れないが、国家を重じ道義を尊び、信仰に厚く、そして社会の中心に立つて活動する。ハーディングのみならずこのやうな人は米国には多いやうに思ふ。然るに日本は之れに反して居るのは非常に遺憾なことである。日本国民なども茲に顧みる所がなければならぬ。殊に上流にあるものは、特に深甚なる注意を払ふことが必要である。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)