デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一

4. 詩経の章句とその活用

しきょうのしょうくとそのかつよう

(65)-4

子曰。誦詩三百。授之政以[以政]不達。使於四方不能専対。雖多亦奚以為[。]【子路第十三】
(子曰く。詩三百を誦し、之れに授くる政を以てして達せず。四方に使ひして専対する能はずんば、多と雖も亦奚《なに》以てせん。)
 本章は詩経の徳と並に学問日用の事を行ふべきを論じたのである。詩経は道徳と教育とに多く引証されて居る。彼の人口に膾炙して居る「関々雎鳩。在河之洲。窃窕淑女。君子好逑」は詩経にある章句である。又大学などには能く引用されて居る「緡蛮黄鳥。止于丘隅」とか「穆々文王。於緝熙敬止。為人君止於仁。為人臣止於敬。為人子止於孝。為人父止於慈。与国人交止於信」とか「瞻彼淇澳。菉竹猗々。有斐君子。如切如磋。如琢如磨。瑟兮。僴兮。赫兮。喧兮。有斐君子。終不可喧兮」とか「於戯前王不忘。君子賢其賢。而親其親。小人楽其楽。而利其利。此以没世不忘也」なども皆之である。そしてこの詩経の中には宮中のこともあれば農業のこともあり又童謡もあるので、その中から時勢に合せて意義あるものを引用して諷刺したものがある。此章句も矢張りそのやうなものであるが何の必要あつて此処に引用して嘆声を発せられたのであるか解らぬ。論語には之ばかりでなく諸所にこんな場合のものもあるので林泰輔氏に質してみたが矢張りその理由が判らぬと云ふことである。若しその理由を知らうとするには孔子の歴史を明かにしなければならぬ。而して之れが為に多くの金を投じて研究したならば或は判らぬこともあるまいと言はれたことがある。
 この章句は、詩は人心の物に感じて言に現はれたもので、人情から出たものである。故に詩を学んで之れを活用すると風俗の変遷を知ることも出来、政治の得失をも見ることが出来る。且つ其の言は温厚和平で諷刺に富んで居るから、之れを学ぶと政治にも通じ、人に接する場合にも能く説明することが出来る。かうなつて始めて詩を学んだと云ふことが出来る。
 若し詩三百篇を学んでも、之れに政治をなしさめて達することが出来なければいけない。又諸侯に使ひして能くその使命を果さなければ即ち成命の外機宜の処置を取ることが出来なければ、詩を多く学んだと云つても何の用をもなさぬものである。之れは詩を学んだと云つてもそれは詩を学ばないと等しいものである、と言はれたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(65) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.561-575
底本の記事タイトル:三六五 竜門雑誌 第四三〇号 大正一三年七月 : 実験論語処世談(第六十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第430号(竜門社, 1924.07)
初出誌:『実業之世界』第20巻第4-8号(実業之世界社, 1923.04,05,06,07,08)