デジタル版「実験論語処世談」(4) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.664-668

 敢て天命を知つたといふほどでも無いが、明治元年六月以来、旧主の徳川慶喜公に対し情義を全うして終りたいとの一念より、仮令一時は召されて止むなく新政府に仕へたことがあつたにしろ、全く仕官の念を廃し、政治方面に功績を挙げようとの望みを全然絶つてしまひ、明治六年以後は、如何に勧められても官に就く事を断然御断りして今日に至つた次第は、前回までに縷々申述べた通りであるが、私が斯く決心するに当つて、非常に私を感動さした、有力なる一つの刺戟がある。
 私が明治元年仏蘭西より帰朝致してから後、当分、その頃駿府と申した静岡に隠退して居つたことはこれも既に申述べて置いてあるが、その静岡に引つ込んでる時に、私は頼山陽の書いた甲州の貞女おまさに就ての文を読んだのである。
 山陽の文に拠ると、この貞女おまさは夫に死に別れてから、親類縁戚の者等より再縁を勧められたのだが、貞女両夫に見えずの義を確く守り、断じて之に応じなかつた。然るに、再縁を勧める方の者も却〻熱心で、爾んなら寡婦を貫して操を立てるが可いと直ぐは賛成して呉れず、飽くまでおまさに再縁を迫り、而も、それが何れもおまさの為良かれと思ふ懇切心から出たものであるので、おまさも一概には之を却くるに忍びず、亡夫に対する貞操を全うすると共に、折角再縁を勧めて呉れる親類縁戚に対する情誼をも無にせず、茲に両全の道を立てんが為に自刃したといふのが、山陽の文の趣意であつた。
 私は、之を読むや、将軍家に於かせられて既に政権を奉還し、私が旧主の臣たるを得ざるに至つた上は、猶おまさが其の夫と死に別れたのと同じやうなもので、私が新政府に仕官を勧められるのは、又恰もおまさが再縁を勧められるのと毫も異りが無い事と思つたから、私とてもおまさと同じ心になり、旧主に対する主従の義を全うする為、断じて新政府の治下に官途に就くまいと決心したのである。そんなら、おまさの如く自刃して相果てたら可からうといふに、それでは犬死になるので、私は官途に就かぬ代り、実業方面に働いて邦家の為に尽さうといふ気になつたのである。当時、私が山陽の文を読んで感じた際の斯の感想を蕪文に綴つて、仏蘭西に同行した杉浦愛蔵といふ知人の父が先づ静岡での漢学者であつた処より、此の人に見てもらつたが、非常に賞めて呉れて、その草稿は今でも猶筐底に保存してある。そのうち発表する時機もあらう。
 壮年の頃の逸話をした序であるから、余談ながら一つ申述べて置くが、若いうちは兎角、何事にも率直になり勝ちなもので、思ひ内にあれば色、外に顕れ易く、遠慮なく思つたまゝ言うてしまふから、他人に嫌はれたりすることにもなる。然し、永いうちには、他人も諒解して呉れるものである。私なぞも壮年の頃は随分率直で、思つたことは包まず憚らず、ドシ〳〵言うてしまふのを例にして居つたので、大久保利通さんには大層嫌はれたものである。
 私は明治二年の暮新政府に仕官して大蔵省に這入つてから三年の暮までは、主として大隈伯に使はれたのだが、四年の春には大蔵大輔であつた大隈伯が参議に転じ、大蔵卿であつた伊達正二位も辞職されて大久保利通公が大蔵卿になられ、大阪の造幣寮の頭であつた井上侯が大隈伯の後を襲うて大蔵大輔に任ぜられ、以来、私は主として井上侯に使はれる事になつた。
 井上侯は頗る機敏の人で、見識も高く、能く私を諒解して下されたのみならず、又至つて面白い磊落な質で、私と一緒になつて楽む所謂遊び仲間にもなられたので、侯と私とは肝胆相照らす親しい間柄にまで進んだが、明治四年の八月、井上侯の大蔵大輔の下に、私が大蔵大丞であつた頃のことである、大蔵卿の大久保さんが、一日突然に、陸軍省の歳費額を八百万円、海軍省の歳費額を二百五十万円に定めることにしたからとて、当時私と同列の大蔵大丞であつた谷鉄臣、安場保和などを喚び寄せ、その可否を諮問せられた。当日は如何したものか井上侯は其の会議に参与しなかつたのである。
 新政府当時の財産状態は頗る不確実不統一のもので、歳入は約四千万円もあつたらうが、之とても明瞭でなく、歳出は殆ど攫み払ひと云つたやうな風を帯び、収納がありさへすれば何んでもやるが、無い時には廃めて置くといふ如き実状にあつた。私は、これではならぬ、如何しても財政整理を断行すべきであると思ひ込み、種々苦慮して、歳入の統計を作り之に応じて歳出を調節せんものと、私が大蔵次官といつたやうな格で諸事工夫し、中村清行が専ら調査統計の任に当つたがそれの未だ出来上りもせぬうちに、約四千万円ばかり不確実な歳入中から、陸海軍合して一千五十万円の経費を支出しようといふのが大久保大蔵卿の意見で、之により私が折角工夫中の財政計画を滅茶滅茶にされてしまふ事になつたから、私もグツと癪に障り、大久保卿の此の意見には反対せざるを得なかつたのである。
 依て私は諮問会議の席上に於て、大久保卿に対し、自分の反対意見を述べたのであるが、総じて財政は「量入為出」を以て原則とせねばならぬ、国家の財源が豊かになりさへすれば「為出量入」の方針を取るも敢て妨げなきに至るやも知れざれど、当時は未だ斯る状態に国家の資源が発達して居らぬ、然るに、歳入の精確なる統計も未だ分明せざるに先ち、兵事は如何に国家の大事なればとて、之が為一千五十万円の支出を匆卒の間に決するなぞとは以ての外のことで、本末顛倒の甚しきものである。宜しく統計が出来上り、歳入額の明白になつた後に於て、徐ろに事の軽重を詮衡し、之に応ずる支出額を決定すべきである、といふのが私の述べた意見である。
 総じて薩州人には一種妙な癖があつて、何か相談でもせられた時に直ぐ夫れに可否の意見を述べると之を悦ばず、熟考した上に御答へするとでも申して一旦退出がり、翌日にでもなつてから意見を述べると之を容れるといふやうな傾がある。薩州人であつたから、流石の大久保卿にも矢張、この癖があつた。然るに、私が卒爾として、「量入為出」の財政原則から説いて、諮問会議の席上直に卿の意見に反対を表明したので、維新三傑の一人と称せられるほど偉い方ではあつたが、私と同列の安場とか谷とか、当時何れも五十以上の老大丞等が、大久保卿の人格に稍〻圧せられた気味で別に之といふ意見も述べず、唯々として賛意を表せるに拘らず、漸く三十を越したばかりの最も年齢の若い私が、折角卿が心に決定て居られた処に反対したのを聴かれて、小癪な奴だとでも思はれたものか、大久保卿は怫然として色を帯び、「そんなら渋沢は陸海軍の方は如何でも関はぬといふ意見か」と私に詰問せられたのである。之に対し私は「如何に渋沢が軍事に通ぜぬとは申しながら、兵備の国家に必要であるぐらゐのことは心得て居る。然し、大蔵省で歳入の統計が出来上らぬ前に、巨額な支出の方ばかりを決定せられるのは危険この上もなき御処置である」と、更に抗弁したが、他の大丞に反対意見のものが無かつたので、遂に大久保卿の意見通りにグツ〳〵と決定せられてしまつた。
 私は、その初め幕府を倒すのを志にしたほどのものゆゑ、幕府を倒して出来た新政府に対して決して悪感を懐いてたのでは無いが、薩人が暴戻であるとの感は多少あつたものである。然るに、大正四年の今日になつても、当時私が持つて居つた「量入為出」の意見は正当で、歳入の判然せぬうちから支出の方ばかりを決めようとした大久保卿の意見を誤謬つてると、私は猶思つて憚らぬほどで、又誰に聞かしても当時の私の意見の方が正当であるのだから、大久保卿が「渋沢は陸海軍が如何なつても可いと思つてるのか」と、怫然色を作して私を圧しつけるやうにして詰問せらるゝのを見ては腹の虫が承知せず、これも亦例の薩人の暴戻であるのだな、と感じて不快で堪らず、翌日直に辞表を提出しようと決心し、その夜、井上侯の許に相談に出かけることにした。私は大久保卿を偉い人であるとは思つてたが、何だか厭やな人だと感じてたものである。大久保卿も亦、私を厭やな男だと思はれてたと見え、私は大変大久保卿に嫌はれたものである。
 井上侯の許に辞職の相談に行くと、侯は懇々と私を諭し「財政整理は追々実行するから、折角、廃藩置県の制をも布くことにした今日、せめては廃藩置県の実が挙り、新政の一段落がつくまで留任せよ」と勧め、差当り大阪造幣寮の整理を行つて呉れぬかと頼まれ、十一月まで同地に滞在し、遂に私は明治六年に至る間、不本意ながら官途にあつたのである。私も斯んな調子で、壮年の頃は、一代の人傑であつた大久保卿にさへ誤解されて嫌はれたものである。然し、永いうちには結局、真実の処が他人にも知られるやうになるもの故、青年諸君は、此の辺の消息を能く心得置かるべきである。
 却説、これから又論語の談話に移るが、孔夫子は茲に挙げた「為政篇」の章句によつても明かなる如く、孝道の事に就て屡〻説かれて居る。然し親から子に対して孝を励めよと強ひるのは、却て子をして不孝の子たるに至らしむるものである。私にも、不肖の子女が数人あるが、それが果して将来如何なるものか、私には解らぬ。私とても子女説き等に対して時折「父母は唯その疾を之れ憂ふ」といふやうな事を聞かせもする。それでも、決して孝を要求し、孝を強ひるやうな事は致さぬことにして居る。親は、自分の思ひ方一つで、子を孝行の子にしてもしまへるが、又不孝の子にもしてしまふものである。自分の思ふ通りにならぬ子を、総て不孝の子だと思はばそれは大なる間違で、皆能く親を養ふといふ丈けならば、犬や馬の如き獣類と雖も猶且つ之を能くする。人の子としての孝道は、斯く簡単なるものであるまい。親の思ふ通りにならず、絶えず親の膝下にあつて親を能く養ふやうな事をせぬ子だからとて、それは必ずしも不孝の子で無い。
 斯る事を申述べると如何にも私の自慢話のやうになつて恐縮であるが、実際の事故、憚らず御話しする。確か私の二十三歳の時であつたらうと思ふが、私の父は私に向ひ「其許の十八歳頃からの様子を観て居ると、什麽も其許は私と違つたところがある。読書をさしてみても能く読み、又何事にも悧潑である。私の思ふところから謂へば、永遠までも其許を手許に留めて置いて、私の通りにしたいのであるが、それでは却て其許を不孝の子にしてしまふから、私は今後其許を私の思ふ通りのものにせず、其許の思ふまゝに為させることにした」と申されたことがある。
 如何にも父の申された如く、その頃私は、文字の力の上から云へば不肖ながら或は既に父よりも上であつたかも知れぬ。又、父とは多くの点に於て不肖ながら優つたところもあつたらう。然るに、父が無理に私を父の思ふ通りのものにしようとし、斯くするのが孝の道であると、私に孝を強ひる如きことがあつたとしたら、私は或は却て父に反抗したりなぞして、不孝の子になつてしまつたかも知れぬ。幸に斯ることにもならず、及ばぬうちにも不孝の子にならずに済んだのは、父が私に孝を強ひず、寛宏の精神を以て私に臨み、私の思ふまゝの志に向つて私を進ましめて下された賜である。孝行は親がさして呉れて始めて子が能きるもので、子が孝を為るのでは無く、親が子に孝を為せるのである。
 父が斯る思想を以て私に対して下された為、自然その感化を受けたものか、私も、私の子に対しては、父と同じやうな態度を以て臨むことにして居る。私が此く申すと烏滸がましくはあるが、何れかと云へば父よりも多少優れたところがあつたので、父と全く行動を異にし、父と違つたところがあつて、父の如くになり得なかつたのである。私の子女等は将来如何なるものか、素より神ならぬ私の断言し得る限りでないが、今の処では、兎に角、私と違つたところがある。この方は私と父とが違つてた違ひ方とは反対で、何れかと申せば、劣る方である。私よりも劣るので、私と違つてるのである。然し、斯く私と違ふのを責めて、私の思ふ通りになれよ、と子女達に強ひて試みたところで、それは斯く注文して強ひる私の方が無理である。私の通りになれよ、と私に強ひられても、私のやうになれぬ子女は什麽してもなれぬ筈のものである。然るに、猶強ひて子女等を総て私の思ふ通りにしようとすれば、子女等は、私の思ふ通りになり得ぬ丈けのことで、不孝の子になつてしまはねばならぬ。私の思ふ通りにならぬからとて、子供を不孝の子にしてしまふのは忍ぶべからざる事である。
 故に私は子が孝を為るのでは無い、親が孝を為せるやうにしてやるべきものだといふ根本思想で子女等に臨み、子女等が総て私の思ふやうにならぬからとて、之を不孝の子だとは思はぬことにして居る。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.664-668
底本の記事タイトル:一九五 竜門雑誌 第三二八号 大正四年九月 : 実験論語処世談(四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第328号(竜門社, 1915.09)
初出誌:『実業之世界』第12巻第14号(実業之世界社, 1915.07.15)