デジタル版「実験論語処世談」(4) / 渋沢栄一

2. 貞女の心事と私の心事

ていじょのしんじとわたしのしんじ

(4)-2

 山陽の文に拠ると、この貞女おまさは夫に死に別れてから、親類縁戚の者等より再縁を勧められたのだが、貞女両夫に見えずの義を確く守り、断じて之に応じなかつた。然るに、再縁を勧める方の者も却〻熱心で、爾んなら寡婦を貫して操を立てるが可いと直ぐは賛成して呉れず、飽くまでおまさに再縁を迫り、而も、それが何れもおまさの為良かれと思ふ懇切心から出たものであるので、おまさも一概には之を却くるに忍びず、亡夫に対する貞操を全うすると共に、折角再縁を勧めて呉れる親類縁戚に対する情誼をも無にせず、茲に両全の道を立てんが為に自刃したといふのが、山陽の文の趣意であつた。
 私は、之を読むや、将軍家に於かせられて既に政権を奉還し、私が旧主の臣たるを得ざるに至つた上は、猶おまさが其の夫と死に別れたのと同じやうなもので、私が新政府に仕官を勧められるのは、又恰もおまさが再縁を勧められるのと毫も異りが無い事と思つたから、私とてもおまさと同じ心になり、旧主に対する主従の義を全うする為、断じて新政府の治下に官途に就くまいと決心したのである。そんなら、おまさの如く自刃して相果てたら可からうといふに、それでは犬死になるので、私は官途に就かぬ代り、実業方面に働いて邦家の為に尽さうといふ気になつたのである。当時、私が山陽の文を読んで感じた際の斯の感想を蕪文に綴つて、仏蘭西に同行した杉浦愛蔵といふ知人の父が先づ静岡での漢学者であつた処より、此の人に見てもらつたが、非常に賞めて呉れて、その草稿は今でも猶筐底に保存してある。そのうち発表する時機もあらう。

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キーワード
貞女, 心事, 渋沢栄一
デジタル版「実験論語処世談」(4) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社, 1968.11)p.664-668
底本の記事タイトル:一九五 竜門雑誌 第三二八号 大正四年九月 : 実験論語処世談(四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第328号(竜門社, 1915.09)
初出誌:『実業之世界』第12巻第14号(実業之世界社, 1915.07.15)