デジタル版「実験論語処世談」(49) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.380-383

子曰。興於詩。立於礼。成於楽。【泰伯第八】
(子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。)
 この、詩に興り、礼に立ち、楽に成ると云ふのは、学問の順序を云つたので、三島先生の講義にも出て居る通り、之は述而篇の、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶと云ふのと、全く等しいものである。学問の次序本末を示されたものである。
 詩に興りの詩は詩経を指して云つたので、詩経は其時代の風俗、習慣、人情等を最も詳しく記したものである。或は歴史の如きものであると云つてもよい。其詩経を読んで其時代の風俗、習慣によく通ずると、何れが善であり何れが悪であり、又何れが長であり何れが短であるかと云ふことを容易に識別することが出来るやうになる。そして自然と善いことの為には人の心は感奮するやうになり、興起して来ると云ふことになる。即ち、そこで詩に興ると云ふことを云はれたのである。三島先生が、人情世態皆詩の中に在り、故に詩を学べば人情を知り、世態に通じ、善を好み悪を悪むの心を興起して、自ら已む能はざるものあり、と云はれて居るが誠に其通りであつて、詩を多く読み、よく善悪の差別を知り、善事に感奮することは即ち学問の第一歩である。
 次に礼と云ふのは、其時分即ち周の礼のことで、其礼の範囲と云ふものは非常に広かつた。其頃の道徳は勿論のこと、法律も之を礼として居つたのである。之等は何れも人間の行ひの規矩となつたものである。されば此規矩に従つて作為するとなると、少しも迷ふと云ふやうなことがない。常に心も行為も定立して、他の邪道に這入ることはない、即ち之を礼に立つと云ふのである。
 楽と云ふのは音楽のことを云ふ。日本の音楽として行はれ居るものは単に娯楽の為のみであつて、芝居の音楽の如き、之れを学問の順序としての正しい音楽と云ふことは出来ぬ。西洋の音楽は日本の音楽に比して見ると、正しい音楽のやうに思はれる。最も私は音楽に就ては素人であるから、彼是云ふ資格は無いかも知れぬ。周の時代に於ては楽は、礼楽射御書数と云つて六芸の中に数へる程大切なものであつた 何うも世の中と云ふものは、何時も堅い厳粛なことばかり云つて居ては決してよく治まつて行くものではない。其間には又軟かいものもなければならぬ。でその時代には政治の事に携はる官職に就かうと思へば、楽に対して修養を積み、之れに対する一つの資格がなければならなかつた。之れが無ければ到底国を治むる資格は無いものと見做されて居つたのである。
 然るに其後段々さう云ふ楽は無くなつて来て、今日日本等で行うて居るものは芸人の楽である。成程之は見て居ると面白い処も有るが、学問の順序としての正しいものと云ふことは出来ぬ。如何にも高尚に心を軟げると云ふには不適当である。今日行はれて居るものは、見て居ると自然之に人が淫するやうになつて来る。それでは宜敷無い。
 之等はどつちかと云ふと避けるやうにした方がよいかも知れぬ。が所謂周の楽の如きは、声律調和して知らず識らず人の心を調和し、性情を養うて行くものである。随つて邪心を起したり淫すると云ふやうなことが無い。そこで始終心懸けて楽に遊び心を調和して置けば、少しも道徳に外れた行為をすると云ふ事はなくなる。即ち楽に成ると云はれるのである。
 即ち以上の詩、礼、楽の三者を修めて居れば其行ひは常に正しく、道徳の完成したものと云ふことが出来る。随つて道徳を完成する学問の順序と云ふことになるのである。之れを修めた人にして始めて政治に関する官職に就くことが出来、又其任務を果すことが出来るのである。
子曰。民可使由之。不可使知之。【泰伯第八】
(子曰く、民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず。)
 この章はよく政論家等の問題とする所で、非常に喧しい章である。此の知らしむべからずと云ふことを、知らしてはならんと云ふので、支那の昔、周の時代に於ては、其政治は上一人の君主の命を以て民には少しも知らせず、只絶対的に由らしめて居たのであると斯う解釈して居るのである。処が今日の憲法政治はさう云ふものではない。迚も今日さう云ふことを許容することは出来ぬ。支那の昔の制度が悪かつたのである。孔子の云ふ所すら間違つて居るのである。最早今日は儒教主義を振り廻すことは、笑ふ可き時代遅れであると、斯う云ふ政治家が屡〻あるのである。
 然し此之を知らしむべからずと云ふ言葉を其様に解釈することは、其解釈する人其人の意見が違つて居ると思ふ。之は決して単に由らしむべし、知らしむべからずと云つたのではない。到底知らしむることが出来ぬと云つたのである。この事は朱憙の註にもよく書いてあることである。知らしめたいのは山々であるが、遺憾にも愚昧の民は到底之を知らしむることが出来ぬのであるとある。程子の曰く、聖人の教を設くる、人の家毎に喩し、戸毎に暁すことを欲せざるには非ず、然れども之をして知らしむること能はず、但能く之に由らしむるのみ。若し聖人民をして知らしめずと曰はば、即ち是れ後世朝四暮三の術なり、豈聖人の心ならんやと云つて居る。如何にも其通りである。
 三島先生も、按ずるに此の章は聖人の心を謂ふに非ずして、施政の実効を謂ふのみ。聖人は固より人々の其理を知らんことを欲すれども其実効は之れに由らしむるに過ぎざるのみ、と云はれて居るが、其通りで、民をして其理を理解せしめて然る後に実行すると云ふことは、到底望むことの出来ぬことである。即ち民は之れを知り得ぬものである。そこで民は之れをして由らしむるより外はない。
 それを世間の、殊に近頃の君主制と民主制とに就ての差別に関して論ずる人々の中には、理想論からして此孔子の論を悪いものとし、民をして知らしめないで施政すると云ふことは到底許すべからざることと、殆ど攻撃的に論じて居る人が多々あるのである。然し之れは決して論語の此の章の正しい解釈と見ることは出来ぬ。但し尭舜三代以前の政治が実際に独裁であつたことは否まれぬ。周の代に於て施政のことを悉く知らしめるように努めたかどうかと云ふことは断言出来ぬけれども、絶対に始めから知らせぬと云ふ意志から政治をしたものではない。で是はよく理解して貰ひたいことで、又今尚誤解する人が有つたら訂正するやうに説明して貰ひたいものである。誠に当時の実際政治を指して独裁政治と云ふのは適当であるかも知れぬが、此の論語の解釈をさう云ふ風にすると云ふことは全く間違つたことである。
 又当時の君主と云ふものは今頃の民主主義を論ずる人の受容れるやうな、選挙に依つて選ばれた政治上の支配者とは大いに其趣きを異にして居るのである。当時の天下の命を受けて其位に即いたのである。聖人と云はれる程、非常に卓越した才能のある人が、天に代つて政治したのである。それが天子である。そこで天子は聖人であり、聖人は即ち天子である。されば其時代の国君は、仲間の中に在る制度上から選ばれるのではなく、天命を受けて天下となつたのである。そこで革命がある時、代つて天下を取るものは何某天命を受けると云ふことをよく云つたのである。此政治の実際を見て、直ちに孔子の如き聖人の思想主義が只夫丈けのものであると浅薄に理解して了ふことは、それこそ浅薄の至りであると云はねばならぬ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.380-383
底本の記事タイトル:三〇一 竜門雑誌 第三八〇号 大正九年一月 : 実験論語処世談(第四十九回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第380号(竜門社, 1920.01)*回次表記:(第四十八回)
初出誌:『実業之世界』第16巻第12号(実業之世界社, 1919.12)