デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.103-108

或曰。雍也仁而不佞。子曰。焉用侫。禦人以口給。屡憎於人。不知其仁。焉用侫。【公冶長第五】
(或人曰く、雍や仁にして佞ならず。子曰く、焉ぞ佞を用ゐん。人に禦るに口給を以てすれば、屡々人に憎まる。其仁を知らず、焉ぞ佞を用ゐん。)
 今回より「公冶長」篇に入るのであるが、例によつてポツポツ抜いて、私が処世実験用に裨益を受けたる章句に就き、所感を談話することに致す。
 却説、茲に掲げた章句にある雍と申さるる方は、姓を冉、字を仲弓と称せられた孔夫子十哲中の一人で、人為り至つて重厚、言語に乏しく簡黙の性質であるらしかつた。是に於てか、或る人が雍を評して孔夫子に告げ申さるるには、「雍は如何にも仁者であるには相違ないが当今の世の中で苟も立身出世を致さうとならば、あんな調子では到底駄目だ。最う少し利巧に立ち廻つて、弁口なども爽かに、侫の分子が無ければならぬものだ。然るに惜哉、雍には其れが無い」と斯う申したのである。
 然るに孔夫子は斯の言に対し、雍に佞の分子なく言辞に訥なるを御咎めにならず、却て雍には未だ仁者を以て目せらるるに足るほど十分の徳を具へて居らぬのを遺憾に思ふ旨を述べられ、「人は弁口を揮つて他人に取り入る必要なぞの無いものである。弁口を揮つて人と折衝し、我が意を遂げようとすれば却つて数々人に憎まるる恐れのあるものだ。決して佞を施す必要は無い。その点は雍の如くで不可は無いがまだ雍に許すに仁を以てするのは早い」と仰せられたのである。
 仁は至大至正の質で、管仲が桓公を相け、公をして諸侯国を統一するに兵馬を用ひしめぬやうにしたのが是れ仁であると、孔夫子は論語「憲問」篇の中に説かれたほどのものである。又孔夫子は「雍也」篇に於ても、博く民を施して能く衆を済ふのが是れ仁であると言はれ、又韓退之は、博く愛するのが仁であると説いて居る。然し斯くの如きは英雄豪傑に非ずんば為し得ざる処のもので、仲弓の重厚簡黙を以てしても猶ほ達し得られぬところである。是に於てか、孔夫子は仁を重んずるの余り、之を仲弓に許されなかつたものと思はれる。
 斯る大きな意味に於ける仁の至極には、管仲の如き英傑にして始めて到達し得らるるもので、博く民に施して能く衆を済ふとか、或は博く愛するとかいふ事は誰にでもできるものでは無いが、小さな意味に於ける仁は、その心懸けさへあれば裏店に住む小商人にも猶ほ容易に実践躬行し得らるるもので、敢て難事では無い。交際上に於て他人に対し慈愛を尽くし、漫りに酷く当らず、優しくしてやるのも是れ仁である。されば朱子の如きは、仁を註して、「愛の理、人の徳」であると申されて居る。如何にも其の通りで、愛のある人、徳のある人は、他人と一言半句を交ふるに当つても親切丁寧で、自分の意見を主張するに当つても、「そんな馬鹿な事があるものか」などと荒つぽい調子にならず、至極穏かに人ざわりの佳いものである。又長上なぞに対しても勿論慇懃を極むるものである。是に於てか、日常生活の上に仁の心を以て臨む人は、往々にして佞者の如くに誤まられ、又、佞を以て処世の法として居る人が、如何にも仁を体する人らしく見受けらるることもあるものである。
 然し、佞にはさつぱりとしたところの無いもので、何か一物を胸に蔵して置いて、我が私利私慾を遂げんが為めに他人に取り入り、他人の手前を繕ひ、他人に附和雷同し、甚だしきに至つては自分の私利私慾を遂げる邪魔になる人を陥れようとしたりなぞするものである。
 岩倉具視公なぞは略はあつたが、決して佞人と申上ぐべきもので無い。実にさつぱりしたところのあらせられた御仁である。智恵があつても、その智恵は私利私慾を伴はず、実に純粋な清いものであつたのである。故に若し、相公(三条実美公)を情に於て清かつた人とすれば、岩倉公は智に於て清かつた人とでも評すべきであらうかと思ふのである。
 私の知つて居る維新頃の人で、仁か佞か一寸判断に苦しまねばならなかつたやうな御仁は明治十八年九月に歿した五代友厚氏である。五代氏は素と鹿児島の旧藩士で、かの文久二年の生麦事件から惹いて翌三年英仏の軍艦がその罪を問はんとして薩摩に迫つたる際、英国軍艦を進撃して捕へられ、維新になつてからは外国官の判事なぞを勤め、その頃は大隈、伊藤、井上なぞの諸公と肩を並べた人で、是等の諸公と略々其出身の同じかつたものである。五代氏も私が官界を退いて身を実業界に投ずる頃に、矢張、官途に志を絶つて実業に従事するやうになつたが、主として大阪に居を構へ、働いたものである。五代氏が官界を去つたのは自ら期する所があつた為めか、将た官界に居られぬやうな事情になつた為めか、其の辺の所まで、私に於ても詳く存ぜぬが、私が官界を退いて実業界に力を尽すことになるや、私に対ひ「渋沢は東京で聢かり活動てくれ、五代は大阪の方で活動するから……」なぞと申されたものである。別に私は五代氏と約束して東西相呼応し実業界で活動く事になつたといふのでも何んでも無いが、兎に角、私も五代氏も殆ど同じ頃に官途に志を絶ち、実業界に身を投ずることになつたもので、五代氏は鉱山とか製藍事業とかいふものに関係し、大阪商法会議所などを起して、之が議長になつたりしたのである。
 この五代友厚氏は、却々長上に取り入ることの巧みな人で、大久保公なぞへは能く取り入つて居つたものである。碁の相手もすれば煎茶なぞもして、人ザワリの実に巧いものであつた。それだからとて全くの幇間に流れて、徒に長上の意見に附和雷同するんでもない。そこの呼吸が実に妙を得て居つたもので、同じ幇間でも船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく一物を胸に蔵した佞らしき処のあつた幇間である。或は実際に於て、五代氏は佞の人であつたかも知れぬ。
 人物の鑑識眼に富んだ人は、皆能く適材適所に置き、佞と仁とを混同して視るやうな事の無いものであるが、「あれほどの怜悧な人で、如何して人物の鑑識に拙だらう」と思はるるほどに佞と仁との区別がつかず、佞者を至極善良の人であるかの如くに鑑識違いを致して之を近づけたりなぞする例は、古今を通じて少く無い。之が原因は私にも些と解り難いが、要するに、己れを空うせずして他人に対し、その人を用ひて自分が利さうとか、或は又、その人に接して自分が快い気分にならうとかいふ如き私心のあるのに因ることだらうと思ふ。自分を主とせず、対手の人を主として稽へ、その人の利益幸福を増進する為にその人を用ひてやらうとの気でさへあれば、人物の鑑識も公平になり、佞者を優しい仁の心のある者だなぞと間違へる事も無く、単に人ザワリが佳いからとて、佞人を用ひて、之に陥れられるといふ如き憂ひは、決してあるべき筈のもので無い。
 西郷隆盛公などは、あれほどの大人物であらせられたが、適材を適所に置くといふほどに秀れた人物鑑識眼のなかつた仁であるかも知れぬ。或は往々にして他人に過まられもしたらうが、元来全く私心の無かつた方であるから、孔夫子の所謂「過ちを観て斯に仁を知る」で、その過失は畢竟仁の深い優しい情の細い所に端を発し、過失と謂へば過失にもなるが、結局、西郷公の過失は公に仁心が深かつたのを示すのである。随つて如何に他人に過まられても、他人に陥れらるるといふ如き事は、絶対に無かつたものである。
 木戸孝允公は、西郷公と其趣を全く異にし、人を用ひるに当つても頗る綿密周到を極め、適材を適所に置くことには頗る妙を得られて居つたものであるかの如くに思はれる。それに就て、私の記憶に存する一つの例がある。
 明治六年の五月に及び、愈よ私が井上侯と共に官を辞して大蔵省より退くことになり、辞表を提出した時に井上侯と私との両人より、奏議として三条公を経て上つた建白書がある。この建白書は、私が案を立てて当時大蔵省の一吏員であつた江幡梧楼氏に起草せしめたものである。この江幡梧楼氏は、後に至り那珂通高と称するに至つた人で、盛岡に生れ、聖堂で学問をした漢学の造詣頗る深き達文の学者であつたのだが、この一文が、当時曙新聞に登載せられ、世間に公にせらるるや、如何にも名文であるなぞと賞められたものである。
 これは、私が未だ官途から退かぬ前の明治五年の春頃であつたやうに記憶するが、木戸孝允公は一日突然私を湯島天神下の茅屋に御訪ね下された。取次の者が「木戸公が御見えになつた」と申すから、「木戸公ならば参議であらせられて、太政官でも偉い方である。あの木戸参議が私の宅なぞへ御訪ねにならう筈が無い。屹度人が違ふだらうから能く調べて見よ」と取次の者に申付けたのであるが、「いや矢張り……参議の木戸孝允さんである」との事故、何の御用で態々御越し下されたものか、と恐縮しながら座敷に御案内申して御用を伺ひあげると、別に大した用件でも無く、「実は、江幡梧楼といふ者を貴公の方の大蔵省で使つてるさうであるが、彼人を太政官の方に採用したいと思ふ、同人の学識に就ては十分に調査もしてあり、又承知しても居るが、その人物が果して如何なるものか、之を明かにし得られぬので困つて居る、依て同人に就き貴公の観た所を腹蔵なく私に申し聞かせてくれ」との事であつたのである。
 私よりは、詳細江幡氏に就て私の観た丈けのことを申述べ、其人物を木戸公に御説明申上げたのであつたが、木戸公が私を態々茅屋に訪れられたのは、其真意が江幡氏の人物を知らうとするよりも、実は之を口実にして渋沢は一体何ういふ人間であるか談話でもして見ようといふにあらせられたものかも知れぬ。仮令、それにしても、申さば刀筆の一吏に過ぎぬ江幡梧楼氏を太政官に採用する件に付き、その人物を知る為め、微位の官吏に過ぎぬ私の茅屋まで、参議の貴い御身分を以て態々来駕あらせられた所によつて見れば、木戸公が如何に人を用ひるに細心の注意を払はれ、適材を適所に置かんとする事に御心を傾けさせられたものであるかを窺ひ知るに足るのである。
 江幡梧楼氏は、その時に何でも大蔵省より一時太政官に移つて任用せられてあつたやうに記憶するが、後年第一高等学校兼東京高等師範学校の教授に任ぜられ、東洋史で有名になり、文学博士で歿くなつた那珂通世氏は、江幡氏が那珂通高と姓名を改められてからの養子である。序であるから、江幡梧楼氏に起草を依嘱して井上侯と私との二人より、退官に際して上つた建白書の全文を左に掲げて置く事に致す。
子曰。道不行。乗桴浮于海。従我者。其由与。子路聞之喜。子曰。由也好勇過我。無所取材。【公冶長第五】
(子曰く、道行はれずんば、桴に乗りて海に浮ばん。我に従はん者は其れ由かと。子路之を聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぐれども、取り材る所なし。)
 私の如きものすら政府の措置が余り面白く無かつたりなぞ致すと、ムシヤクシヤして来て田舎にでも引つ込んでしまはうかといふやうな気に満更ならぬでも無かつたものだが、孔夫子も矢張時には爾んな気になられた事のあるものと見え、茲に掲げた章句に於て、「什麽したところで、我が説く道は行はれさうも無いから、モウモウ道を説くことなぞは廃めにしてしまひ、筏にでも乗つて海に出かけ、絶海の孤島に浮世離れをした暢気な生活でも営みたいものだ。その時には定めし子路が一緒に行つてくれるだらうな」と仰せになつたのである。如何にも厭世的な嘆息であるかの如くに聞えるが、斯の言は道の行はれざるに感慨せられた余り、孔夫子の御漏しになつた嘆息で、必ずしも之を実行せられようとしたのでは無い。既に前条にも申述べたことがあるやうに、大槻磐渓先生などは「浮于海」を「海に浮ぶやうなことにもならば」といふ意味に解釈すべきであると説かれて居る。或は爾う解釈するのが穏当であらうかとも思ふ。
 「由」とは子路の名であるが、「夫子が愈よ浮世を棄てて絶海の孤島に隠遁する段ともならば、由よ、貴公は一緒に行くだらうな」と、師匠の孔夫子から声が懸つたので、子路は之を聞くや、孔夫子が自分を知つて下された知己の言葉に感泣し、大に悦んだのである。然し、孔夫子は子路が斯く悦ぶのを見て却て憂へられ、「子路には向ふ見ずの天真爛漫な処はあるが、什麽もあの通りで、思慮分別が足らぬから困る」と、大に子路を戒められたのが即ち茲に掲げた章句である。
 子路が若し思慮分別に富んだ人なら、孔夫子が厭世的嘆声を発せらるるのを聞くや否や、「これはこれは飛んでも無いことを仰せになるものかな、道が行はれぬからとて孤島に遁れようなぞとは、さてさて先生にも似合はぬ卑怯の御沙汰で厶らぬか」と、孔夫子の絶望なされた処を御諫め申上ぐるのが順当である。然し、子路には、師匠の為めとあれば水火をも辞せざる無類の勇気こそあれ、事に臨み冷静の態度で之に処する智慮が乏しかつたものだから、別に御諫め申上げようともせず、「我に従はんものは其れ由か」と弄戯ひ半分に仰せられた孔夫子の語を真面にうけて悦んだものらしく思へる。かく率爾に物事を判断する傾向が子路にある事を孔夫子は平素憂へて居られたものらしいが、又一方から観れば、「我に従はんものは其れ由か」と子路を見て弄戯ふやうな語を御発しになつた所に、孔夫子の弟子に対する御親みの温情が露れて居るとも稽へ得られるのである。
 子路は論語先進篇にも、「子路率爾として対へて曰く」とあるほど故、率爾な所のある智慮の到らぬガヤガヤした性質の人であつたのだが、根本は至極純朴で、孰れかと申せば少し奇人がかつて居つたらしく思へる。されば、孔夫子も直ぐ次の章句に於て孟武伯と申す御仁の問に対し、「由也千乗之国。可使治其賦也。」(由や千乗の国、其賦を治めしむべし。)と答へられ、由の器たるや、千乗の国たる諸侯の国の大将軍たるには適するが、「不知其仁也。」(その仁を知らざる也。)即ち救世済民の大政治家になれようとは思はぬと仰せられて居る。
 子路は余程変つた面白いところのあつた人と見え、衛の霊公の弟で国外にあつたものが本国へ帰つて来て、兄弟喧嘩の乱が起つた時には孰かに味方し、勇しく出陣した者であるが、合戦最中に冠が脱げて落ちるや、「君子は死すとも冠を脱せず」と古書にあるからとて、無理に其の落ちた冠を拾はうとした為め、其間に敵に斬られて死んだといふ事が、確か「孔子家語」に載せられてあつたやうに記憶する。然し平素の服装なぞには一向頓着しなかつた人らしい。服装には一向頓着せぬといふ事は、誰にでもできさうに見えて一寸できぬものである。それ丈けによつても子路が余程変つた面白い所のあつた人物たる事を知り得られる。
 人には何れ位の程度までの勇気があつて可いものか、それを限定するのは難事である。子路ぐらゐの勇気さへも孔夫子は向ふ見ず過ぎると戒められて居る。ただに勇気のみならず、礼の如きも余りに過ぎるとそれが却つて諛ふといふ事になる。何事につけ其処に過不及の無いやうにするのは、一に修養の力によらねばならぬものである。孔夫子は、子路に向ふ見ずな勇に過ぎる病所のある事を十分に御承知であらせられたに相違ないが、傍に置くと何処となくきさくで面白いものだから、遊説の時なぞも始終御同道になり、又弄戯つたりなぞして面白がつて居られたものと察せられる。然し、これが為に自惚根性を子路に起させるやうなことがあつては、当人の不為であるとの賢慮から、時々斯の章句にあるやうな訓戒を与へられたものと思はれる。
 誰々が斯うであると明かに指名して申上ぐるわけには参らんが、実業界なぞにも子路の如き人物は却々に尠く無い。交際つて見れば至極面白い、腹に奸曲な蟠りなど申すものが一切無く、天真爛漫で竹を割つたやうな性分は、接して見ただけでは如何にも心持が可い。然し、さういふ風の人の言つたり考へたりする処には、什麽しても原因結果の関係を十分に考慮して居らなかつたりなぞして手抜かりが多いから浮つかり賛成のできぬものである。随つて、斯る人の考へたところ言ふ所は、如何に面白いからとて直ぐにそれに惚れて賛成し、実行でもしようとすれば飛んでも無い災難を招かねばならなかつたり、或は酷い目に遭はねばならぬやうな羽目に陥つたりするものである。されば飄逸で面白く、向ふ見ずな天真爛漫な所のある人の言行に対しては面白いからとて直ぐ之に賛同するやうなことをせず、賛同する前に十分慎重に考慮し、その上で是非賛否を決すべきものである。さうで無いと意外の迷惑を自分が招くのみならず、他人へも御迷惑を懸けたりなぞする事になる。否な当人に取つても甚だ面白からぬ結果を将来する事にもなるものである。この点は深く注意を要する。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.103-108
底本の記事タイトル:二二三 竜門雑誌 第三四一号 大正五年一〇月 : 実験論語処世談(一七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第341号(竜門社, 1916.10)
初出誌:『実業之世界』第13巻第17,18号(実業之世界社, 1916.08.15,09.01)