デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一

2. 大仁と小仁

だいじんとしょうじん

(17)-2

 斯る大きな意味に於ける仁の至極には、管仲の如き英傑にして始めて到達し得らるるもので、博く民に施して能く衆を済ふとか、或は博く愛するとかいふ事は誰にでもできるものでは無いが、小さな意味に於ける仁は、その心懸けさへあれば裏店に住む小商人にも猶ほ容易に実践躬行し得らるるもので、敢て難事では無い。交際上に於て他人に対し慈愛を尽くし、漫りに酷く当らず、優しくしてやるのも是れ仁である。されば朱子の如きは、仁を註して、「愛の理、人の徳」であると申されて居る。如何にも其の通りで、愛のある人、徳のある人は、他人と一言半句を交ふるに当つても親切丁寧で、自分の意見を主張するに当つても、「そんな馬鹿な事があるものか」などと荒つぽい調子にならず、至極穏かに人ざわりの佳いものである。又長上なぞに対しても勿論慇懃を極むるものである。是に於てか、日常生活の上に仁の心を以て臨む人は、往々にして佞者の如くに誤まられ、又、佞を以て処世の法として居る人が、如何にも仁を体する人らしく見受けらるることもあるものである。
 然し、佞にはさつぱりとしたところの無いもので、何か一物を胸に蔵して置いて、我が私利私慾を遂げんが為めに他人に取り入り、他人の手前を繕ひ、他人に附和雷同し、甚だしきに至つては自分の私利私慾を遂げる邪魔になる人を陥れようとしたりなぞするものである。
 岩倉具視公なぞは略はあつたが、決して佞人と申上ぐべきもので無い。実にさつぱりしたところのあらせられた御仁である。智恵があつても、その智恵は私利私慾を伴はず、実に純粋な清いものであつたのである。故に若し、相公(三条実美公)を情に於て清かつた人とすれば、岩倉公は智に於て清かつた人とでも評すべきであらうかと思ふのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.103-108
底本の記事タイトル:二二三 竜門雑誌 第三四一号 大正五年一〇月 : 実験論語処世談(一七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第341号(竜門社, 1916.10)
初出誌:『実業之世界』第13巻第17,18号(実業之世界社, 1916.08.15,09.01)