デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一

4. 木戸公茅屋を訪はる

きどこうぼうおくをとわる

(17)-4

 西郷隆盛公などは、あれほどの大人物であらせられたが、適材を適所に置くといふほどに秀れた人物鑑識眼のなかつた仁であるかも知れぬ。或は往々にして他人に過まられもしたらうが、元来全く私心の無かつた方であるから、孔夫子の所謂「過ちを観て斯に仁を知る」で、その過失は畢竟仁の深い優しい情の細い所に端を発し、過失と謂へば過失にもなるが、結局、西郷公の過失は公に仁心が深かつたのを示すのである。随つて如何に他人に過まられても、他人に陥れらるるといふ如き事は、絶対に無かつたものである。
 木戸孝允公は、西郷公と其趣を全く異にし、人を用ひるに当つても頗る綿密周到を極め、適材を適所に置くことには頗る妙を得られて居つたものであるかの如くに思はれる。それに就て、私の記憶に存する一つの例がある。
 明治六年の五月に及び、愈よ私が井上侯と共に官を辞して大蔵省より退くことになり、辞表を提出した時に井上侯と私との両人より、奏議として三条公を経て上つた建白書がある。この建白書は、私が案を立てて当時大蔵省の一吏員であつた江幡梧楼氏に起草せしめたものである。この江幡梧楼氏は、後に至り那珂通高と称するに至つた人で、盛岡に生れ、聖堂で学問をした漢学の造詣頗る深き達文の学者であつたのだが、この一文が、当時曙新聞に登載せられ、世間に公にせらるるや、如何にも名文であるなぞと賞められたものである。
 これは、私が未だ官途から退かぬ前の明治五年の春頃であつたやうに記憶するが、木戸孝允公は一日突然私を湯島天神下の茅屋に御訪ね下された。取次の者が「木戸公が御見えになつた」と申すから、「木戸公ならば参議であらせられて、太政官でも偉い方である。あの木戸参議が私の宅なぞへ御訪ねにならう筈が無い。屹度人が違ふだらうから能く調べて見よ」と取次の者に申付けたのであるが、「いや矢張り……参議の木戸孝允さんである」との事故、何の御用で態々御越し下されたものか、と恐縮しながら座敷に御案内申して御用を伺ひあげると、別に大した用件でも無く、「実は、江幡梧楼といふ者を貴公の方の大蔵省で使つてるさうであるが、彼人を太政官の方に採用したいと思ふ、同人の学識に就ては十分に調査もしてあり、又承知しても居るが、その人物が果して如何なるものか、之を明かにし得られぬので困つて居る、依て同人に就き貴公の観た所を腹蔵なく私に申し聞かせてくれ」との事であつたのである。
 私よりは、詳細江幡氏に就て私の観た丈けのことを申述べ、其人物を木戸公に御説明申上げたのであつたが、木戸公が私を態々茅屋に訪れられたのは、其真意が江幡氏の人物を知らうとするよりも、実は之を口実にして渋沢は一体何ういふ人間であるか談話でもして見ようといふにあらせられたものかも知れぬ。仮令、それにしても、申さば刀筆の一吏に過ぎぬ江幡梧楼氏を太政官に採用する件に付き、その人物を知る為め、微位の官吏に過ぎぬ私の茅屋まで、参議の貴い御身分を以て態々来駕あらせられた所によつて見れば、木戸公が如何に人を用ひるに細心の注意を払はれ、適材を適所に置かんとする事に御心を傾けさせられたものであるかを窺ひ知るに足るのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.103-108
底本の記事タイトル:二二三 竜門雑誌 第三四一号 大正五年一〇月 : 実験論語処世談(一七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第341号(竜門社, 1916.10)
初出誌:『実業之世界』第13巻第17,18号(実業之世界社, 1916.08.15,09.01)