デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一

3. 五代友厚は仁か佞か

ごだいともあつはじんかねいか

(17)-3

 私の知つて居る維新頃の人で、仁か佞か一寸判断に苦しまねばならなかつたやうな御仁は明治十八年九月に歿した五代友厚氏である。五代氏は素と鹿児島の旧藩士で、かの文久二年の生麦事件から惹いて翌三年英仏の軍艦がその罪を問はんとして薩摩に迫つたる際、英国軍艦を進撃して捕へられ、維新になつてからは外国官の判事なぞを勤め、その頃は大隈、伊藤、井上なぞの諸公と肩を並べた人で、是等の諸公と略々其出身の同じかつたものである。五代氏も私が官界を退いて身を実業界に投ずる頃に、矢張、官途に志を絶つて実業に従事するやうになつたが、主として大阪に居を構へ、働いたものである。五代氏が官界を去つたのは自ら期する所があつた為めか、将た官界に居られぬやうな事情になつた為めか、其の辺の所まで、私に於ても詳く存ぜぬが、私が官界を退いて実業界に力を尽すことになるや、私に対ひ「渋沢は東京で聢かり活動てくれ、五代は大阪の方で活動するから……」なぞと申されたものである。別に私は五代氏と約束して東西相呼応し実業界で活動く事になつたといふのでも何んでも無いが、兎に角、私も五代氏も殆ど同じ頃に官途に志を絶ち、実業界に身を投ずることになつたもので、五代氏は鉱山とか製藍事業とかいふものに関係し、大阪商法会議所などを起して、之が議長になつたりしたのである。
 この五代友厚氏は、却々長上に取り入ることの巧みな人で、大久保公なぞへは能く取り入つて居つたものである。碁の相手もすれば煎茶なぞもして、人ザワリの実に巧いものであつた。それだからとて全くの幇間に流れて、徒に長上の意見に附和雷同するんでもない。そこの呼吸が実に妙を得て居つたもので、同じ幇間でも船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく一物を胸に蔵した佞らしき処のあつた幇間である。或は実際に於て、五代氏は佞の人であつたかも知れぬ。
 人物の鑑識眼に富んだ人は、皆能く適材適所に置き、佞と仁とを混同して視るやうな事の無いものであるが、「あれほどの怜悧な人で、如何して人物の鑑識に拙だらう」と思はるるほどに佞と仁との区別がつかず、佞者を至極善良の人であるかの如くに鑑識違いを致して之を近づけたりなぞする例は、古今を通じて少く無い。之が原因は私にも些と解り難いが、要するに、己れを空うせずして他人に対し、その人を用ひて自分が利さうとか、或は又、その人に接して自分が快い気分にならうとかいふ如き私心のあるのに因ることだらうと思ふ。自分を主とせず、対手の人を主として稽へ、その人の利益幸福を増進する為にその人を用ひてやらうとの気でさへあれば、人物の鑑識も公平になり、佞者を優しい仁の心のある者だなぞと間違へる事も無く、単に人ザワリが佳いからとて、佞人を用ひて、之に陥れられるといふ如き憂ひは、決してあるべき筈のもので無い。

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デジタル版「実験論語処世談」(17) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.103-108
底本の記事タイトル:二二三 竜門雑誌 第三四一号 大正五年一〇月 : 実験論語処世談(一七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第341号(竜門社, 1916.10)
初出誌:『実業之世界』第13巻第17,18号(実業之世界社, 1916.08.15,09.01)