デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.166-170

伯牛有疾。子問之。自牖執其手。曰。亡之命矣夫。斯人也而有斯疾也。斯人也而有斯疾也。【雍也第六】
(伯牛疾あり。子之を問ひ、牖より其手を執つて曰く。之を亡ふは命なるかな。斯の人にして斯の疾あり。斯の人にして斯の疾あり。)
 茲に掲げたる章句は、孔夫子が御弟子の一人なる伯牛の疾篤きを聞き、見舞に行かれて漏らされた嘆息である。伯牛は孔門のうちでも顔淵、閔子騫に次ぎ徳行の高かつた立派な人物であるが、姓を冉、名を耕と称し、伯牛は其字である。伯牛の疾は癩病であつたとの説が古来行はれて居る。或は爾うかも知れぬ。孔夫子が牖から見舞はれて、強ひて室内に入られなかつたのも之が為だらう。察するに伯牛は自分の身体が悪疾によつて汚されて居るので、孔夫子の御目に懸かるを憚り強ひて室内に御入り下さらぬやうと、孔夫子に御願ひ申上げたものだらう。然るになほ孔夫子が牖から手を伸べて伯牛の手を取り、その恢復の見込み無きを見て、「斯の人にして斯の疾あり、斯の人にして斯の疾あり」と、同じ言葉を二度まで重ねて繰り返し繰り返し居らるるところを観れば、如何に孔夫子が人情に厚く、弟子を愛する情の細やかであつたかを知り得られる。孔夫子が能く弟子に懐かれ、二千五百年後の今日に至るまでなほ尊敬せらるる所以の原因は、斯く人情に篤かつた処にある。才や力量ばかりでは兎ても永く人を心服さしてゆけるもので無い。人情に篤い人のみが能く人に懐かれ、永遠までも尊敬せらるるのである。
 孔夫子の発せられた嘆息のうちにある「斯の人にして斯の疾あり。」の語は、「之ほどに徳の高い立派な伯牛にも、なほ斯んな悪い病があるか。何んといふ情無い事であらう」といふ意味で、折角その将来に望みを属して居つた有為の人物が死病に罹つたとなれば、誰でも孔夫子と等しく斯の嘆息を発せざるを得無くなるもので、「なぜ斯んな疾に罹つてくれたのだらう」と思ふのが人情である。況んや伯牛の疾は俗に天刑病と称せらるる癩病であつたとすれば、孔夫子は一層この感を深うせられた事だらうと思はれる。
 私とても是れまで知つて居る人物のうちで、斯の人こそ将来必ずや豪くなるだらうと大に望を属して居つたに拘らず、その人にボキリ早死にをされてしまつた為に誠に、惜しい事をした、残念な事をしたと思つた場合が随分少く無い。前条に談話したうちに一二度述べて置いた藤田東湖の四男藤田小四郎が、武田耕雲斎の乱に加つて斬首せられた事を聞いた時なぞには、「疾」といふ言葉の意味は、孔夫子の意味と少しく違ふが、私は「斯の人にして斯の疾あり」と、衷心より愛惜の念を禁じ得なかつたのである。この人は昨今の若い人々からは最早や其名さへ忘れられてしまつて居るだらうが、大亦興治といふ二十四歳になる有為の青年が肺病で歿した時なぞには私は殊に斯の感慨を深うしたのである。
 この大亦興治といふ青年は素と紀州の生れであつたが、明治二十年頃、私が未だ深川の邸宅に住つてた時分に、同人の母が私の邸の召使になつて住み込んでた関係から、便宜上私の許へ寄寓して厄介になつて居つたものだ。恰度その時分大亦は十六歳であつたやうに記憶するが、全く私も驚かされるほどの機敏で、その頭脳の明晰敏達なるには感嘆の外なく、昔から一を聞いて十を知るといふ語があるが、これは大亦の如き男を指して云つたものであらうと私には思はれ、僅に十六歳の少年を以てして能くもかほど機敏に頭脳の働けるものだと、私は驚くより外は無かつたのである。
 それでありながら、別に何処の学校で勉強したといふのでも無い、ただ生れついて読書が好きであつたものと見え、間がな隙がな手当り次第に読書し、殊に新聞を精読したものだ。読んで居る新聞のうちに何か解らぬ不審の点がありでもすれば、それを直ぐ私に質問するを例として居つたが、その質問が又何時でも要領を得て居つたもので、普通の少年には到底理解し得られぬやうな難解な問題でも、私が説明してやりさへすればそれが直ぐ大亦には理解ができたものである。私は甚く感心して、大亦の話を一日、当時第二十銀行の頭取であつた西園寺公成氏に話すと、氏も甚く感心し、「そんな青年なら是非自分が欲しい。使用つてみるから……」と申されるので、私より西園寺氏の許へ遣す事になつたのであるが、西園寺氏も亦随分よく思ひ切つて重用したもので、一躍大亦を二十銀行の支配人に任命したのである。その時大亦は二十二歳であつたので、私も西園寺氏の斯の思ひ切つた抜擢には少し驚かされた。稍々不安の念が無いでは無かつたが、流石に一を聞いて十を知る大亦だけあつて、僅に二十二歳でありながら能く銀行支配人の重任に堪へ得たのみか、然も之を立派に成し遂げ得たのである。
 兎角、才智が優れた機敏に立ち廻る者は横径に這入り易く、狡猾くなつたり悪い事をしたりする傾きのあるものだが、大亦は是ほど鋭敏で非凡の才能を持ちながら、毫も曲がつた処の無かつたもので、悪い事なぞは些かも致さず、小狡猾いところなぞ少しも無かつたものである。随つて信用も加はり、将来有望の実業家を以て目せられて居つたのだが、惜しい事には肺病に罹り、漸く二十四歳になつたばかりで死んでしまつたのである。私は大亦が肺病に罹つたのを聞いた時には、孔夫子が伯牛の死病に取りつかれたのを見舞はれた時と等しく、「斯の人にして斯の疾あり」の歎を発せざるを得なかつたのだ。大亦の外にもなほ死なれて惜しいと思つた人も幾干もある。
子曰。賢哉回也。一簟[簞]食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。【雍也第六】
(子曰く、賢なるかな回や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其憂に堪へず。回や其楽みを改めず。賢なるかな回や。)
 茲に掲げた章句を読んで、孔夫子が人に向つて貧困の生活を勧め、富める人を攻撃せられたものであると思つたら、それは大なる間違ひである。これまでも屡〻申述べて置いた通りで、人は自ら富まなければ博く民に施して能く急を済ふわけにゆかぬものだ。孔夫子とても斯の点は素より知つて居られる事ゆゑ、人に貧窮を勧めて、顔回の如く一簞の食一瓢の飲に満足して決して富まうといふやうな不所存を起しては相成らぬなぞと、斯の章句に於て教へられたのでは無い。顔回が富の誘惑に打ち勝つて簡易生活に満足し、毫も志を曲ぐる事無く、富貴の上に超然として道を楽むのを賞められたのである。
 この章句のうちにある「一瓢の飲」とは、日本で通常考へられて居る如く瓢簟一つに入れてある酒といふ意味では無い。その頃支那では水を瓢簟の中に入れて居つたものだ。又、飯を入れる箱が是れ「簞」である。されば、顔回が一箪の食一瓢の飲で、陋巷に在つたといふのは、飯と水と丈けで不自由な生活をして居つたといふ意味で、普通大抵の人間ならばその苦みに堪へかね、直に富貴の誘惑に敗けてしまふのだが、顔回は能く其憂ひを忍び、断乎として威武にも屈せず富貴にも冒されなかつたのである。之が顔回の賢かつた処だ。
 世間の事を生半可に噛つた者は、何よりも富貴を重んじて権勢のある処金銭のある処に就くのを、処世上の最も賢き手段であるかの如くに思つてるが、実は爾うで無い。一見、初めのうちは賢さうに見えても、富貴の為に志を曲げるやうな人は、末になれば又富貴の為に如何なる曲事をも営むやうになり、遂には身を亡ぼすに至るものだ。又、斯く下劣な心懸けの人は、真に人を見る明ある達人によつて重用せらるるものでも無いのである。
 実に不思議に堪へぬのは、東京市の養育院に収容せらるる老廃者に共通の性質が、利己的なる事である。これは私のみならず、同院の実務に関係する者がみな共に実験上より感じて居つて、等しく言ふ所である。利己一点張を処世の主義とし、己れの利を謀るにのみ汲々し、一にも二にも我が富貴ばかりを心懸けて居つたら、養育院に収容せらるる如き老廃者とならずに富貴栄達を思ふままに遂げ得られさうなものだが、結果は却て其と正反対になるものである。我利々々主義の者は、如何に自分丈けは其れで通さうとしても世の中が其れでは承知せぬものだ。利己主義一点張の人に対しては、世間が什麽しても力を副へてくれぬ事になるから、自然世の中に立ち得られ無くなり、その極養育院に収容せらるるやうな事にもなるのである。
 人は富むやうになりさへすれば、道を楽む志が失せてしまつて我と我が富貴に淫するに至るものと限つたわけのもので無いのである。私の許へ出入せられて私が御交際を致して居る人々の多くは、何んでも金銭さへ儲ければ其れで宜しいといふ方々で無い積りである。中には金銭が出来たからとて、直ぐ純金の茶釜を拵へるやうな人も無いでは無いが、其れは至つて稀である。私とても、仮令顔回ほどにはゆかなくつても、一簞の食一瓢の飲を毫も憂とせず、道を楽むだけの志を持つて居る。少くとも私が廿四歳で故郷を脱た時には、確かに斯の志のあつたものだ。
 愈よ故郷を出るといふ時には、これまで既に申述べ置いたやうに、父より二分金で百両貰つたのであるが、その頃は血気盛りであつたものだから、江戸へ出てから吉原で二十両ばかり使つてしまひ、京都へ行つても、儒生の塾に出入り儒生と往来したので、屡〻祇園町などで遊んだものである。それが為随分金銭が要つたのみならず、江戸でも始終喜作とは一緒で、喜作に比し私の方は多少金銭も多く持つてた処より、二人の間は生死さへ共にしようといふ間柄の事とて私が大抵喜作の分までも払ひ、旁〻京都に着いて一ケ月もしたら金銭が無くなつてしまつたのである。この時は、父へ申送つてやれば又金銭を取寄せ得られぬでも無かつたのであるが、一度郷関を出てしまつた上は二度と金銭の無心を父に申入れぬといふ決心が私にあつたので、苦しい処を我慢し、そこは飽くまで一簞の食一瓢の飲に甘んじて、如何に懐中が淋しくなつても父へ金銭の無心を申送つてやらず、前条に談話したうちにある如く、猪飼正為氏より借金して当座を凌ぐ事にしたのである。人は如何に貧窮したからとて、心の持ちやう一つで如何にでもなるものである。顔回の如く一簞の食一瓢の飲に甘んずる事は、一見苦しいやうでも、そこには又そこで衷心に一種の誇を感じ得らるるものゆゑ、不自由のうちにも自ら楽みを覚ゆるものだ。
 菅原道真なども、猶且顔回に等しく、一箪の食一瓢の飲に甘んじ、陋巷に在つて他人の堪へ難しとする憂ひに堪へ、学を好み道を楽む事を改めなかつた人であると云へる。道真と争つた藤原時平とても素より非凡の才能を備へた人物で、決して凡骨では無かつたのであるが、関白基経の長子で、道真に比すれば門閥高く、政治家としても若いに似合はず却〻の切れ者であつたところより、門閥と才とに慢心を生じ之を鼻にかけて重厚なる道真を凌ぐに至つたのである。道真は参議是善の第三子であつたものの、時平に比ぶれば遥に門地低く、才は寧ろ無い方で稍〻頑固なところがあり、学問の方で出世した人で、年輩も五十を越して居つたのだから、時平と醍醐天皇の朝に左右大臣として両立するに及び、相容れぬやうになつたのも当然である。
 道真は、仮令多少頑固な性分があつたにせよ、生れつき極々生真面目で、学を好むこと顔回の如き性質ゆゑ、随つて人情にも頗る篤かつたものである。かの有名なる「去年今夜侍清涼」の詩なども、如何に道真が人情に富んだ感激性の人であつたかを語るものだ。其他には、「菅家後集」にある詩のうちには、道真の人情に厚かつた証拠になるものが幾干もある。
 人は幾干才があつても、技能があつても、人情に敦厚なところが無ければ、決して後世までも尊敬せられてその人の名が永く道真の如く竹帛に垂れるものでは無い。それから又、人が自分一人の栄燿栄華を犠牲にして陋巷に居住し、一簞の食一瓢の飲に甘んじ、他人の憂ひに堪へずとする処に能く堪へてゆく事は、非常に人心を感動させるものである。菅原道真でも、楠正成でも、今日に至るまで多大の感動を人心に与ふる所以は、人情に厚く犠牲的精神に富んで居つたからだ。之に反し如何に才能識見があつても、人情を無にし犠牲的精神に乏しい人物は、徒に後世に悪名を残すのみのものである。時平にしても、尊氏にしても、光秀にしても、その才能の上からのみ云へば決して凡人で無い。孰れも皆凡人以上の傑物である。然るに芝居なぞで観れば時平の如きは途方も無い悪党にされてしまつて居る。一に人情を無にし犠牲的精神に乏しかつた結果である。斯の点から稽へれば、道真、正成の如きは其当時に於ては寧ろ劣敗者の位置にあつたもので、決して成功者であつたとは云へず、時平、尊氏などが成功者であつたのだ。然し今日となれば、道真、正成などの方が却て成功者で、時平、尊氏などは劣敗者である。成功不成功は永い歳月の淘汰を経てから初めて決せらるべきもので、永遠の成功を収めんとするものは、何よりも人情に厚くなるといふ事が最も大切だ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.166-170
底本の記事タイトル:二三七 竜門雑誌 第三四九号 大正六年六月 : 実験論語処世談(二五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第349号(竜門社, 1917.06)
初出誌:『実業之世界』第14巻第8号(実業之世界社, 1917.04.15)