デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一

1. 大亦興治は非凡の天才

おおまたおきはるはひぼんのてんさい

(25)-1

伯牛有疾。子問之。自牖執其手。曰。亡之命矣夫。斯人也而有斯疾也。斯人也而有斯疾也。【雍也第六】
(伯牛疾あり。子之を問ひ、牖より其手を執つて曰く。之を亡ふは命なるかな。斯の人にして斯の疾あり。斯の人にして斯の疾あり。)
 茲に掲げたる章句は、孔夫子が御弟子の一人なる伯牛の疾篤きを聞き、見舞に行かれて漏らされた嘆息である。伯牛は孔門のうちでも顔淵、閔子騫に次ぎ徳行の高かつた立派な人物であるが、姓を冉、名を耕と称し、伯牛は其字である。伯牛の疾は癩病であつたとの説が古来行はれて居る。或は爾うかも知れぬ。孔夫子が牖から見舞はれて、強ひて室内に入られなかつたのも之が為だらう。察するに伯牛は自分の身体が悪疾によつて汚されて居るので、孔夫子の御目に懸かるを憚り強ひて室内に御入り下さらぬやうと、孔夫子に御願ひ申上げたものだらう。然るになほ孔夫子が牖から手を伸べて伯牛の手を取り、その恢復の見込み無きを見て、「斯の人にして斯の疾あり、斯の人にして斯の疾あり」と、同じ言葉を二度まで重ねて繰り返し繰り返し居らるるところを観れば、如何に孔夫子が人情に厚く、弟子を愛する情の細やかであつたかを知り得られる。孔夫子が能く弟子に懐かれ、二千五百年後の今日に至るまでなほ尊敬せらるる所以の原因は、斯く人情に篤かつた処にある。才や力量ばかりでは兎ても永く人を心服さしてゆけるもので無い。人情に篤い人のみが能く人に懐かれ、永遠までも尊敬せらるるのである。
 孔夫子の発せられた嘆息のうちにある「斯の人にして斯の疾あり。」の語は、「之ほどに徳の高い立派な伯牛にも、なほ斯んな悪い病があるか。何んといふ情無い事であらう」といふ意味で、折角その将来に望みを属して居つた有為の人物が死病に罹つたとなれば、誰でも孔夫子と等しく斯の嘆息を発せざるを得無くなるもので、「なぜ斯んな疾に罹つてくれたのだらう」と思ふのが人情である。況んや伯牛の疾は俗に天刑病と称せらるる癩病であつたとすれば、孔夫子は一層この感を深うせられた事だらうと思はれる。
 私とても是れまで知つて居る人物のうちで、斯の人こそ将来必ずや豪くなるだらうと大に望を属して居つたに拘らず、その人にボキリ早死にをされてしまつた為に誠に、惜しい事をした、残念な事をしたと思つた場合が随分少く無い。前条に談話したうちに一二度述べて置いた藤田東湖の四男藤田小四郎が、武田耕雲斎の乱に加つて斬首せられた事を聞いた時なぞには、「疾」といふ言葉の意味は、孔夫子の意味と少しく違ふが、私は「斯の人にして斯の疾あり」と、衷心より愛惜の念を禁じ得なかつたのである。この人は昨今の若い人々からは最早や其名さへ忘れられてしまつて居るだらうが、大亦興治といふ二十四歳になる有為の青年が肺病で歿した時なぞには私は殊に斯の感慨を深うしたのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.166-170
底本の記事タイトル:二三七 竜門雑誌 第三四九号 大正六年六月 : 実験論語処世談(二五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第349号(竜門社, 1917.06)
初出誌:『実業之世界』第14巻第8号(実業之世界社, 1917.04.15)