デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一

3. 貧を勧めしに非ず

ひんをすすめしにあらず

(25)-3

子曰。賢哉回也。一簟[簞]食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。【雍也第六】
(子曰く、賢なるかな回や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其憂に堪へず。回や其楽みを改めず。賢なるかな回や。)
 茲に掲げた章句を読んで、孔夫子が人に向つて貧困の生活を勧め、富める人を攻撃せられたものであると思つたら、それは大なる間違ひである。これまでも屡〻申述べて置いた通りで、人は自ら富まなければ博く民に施して能く急を済ふわけにゆかぬものだ。孔夫子とても斯の点は素より知つて居られる事ゆゑ、人に貧窮を勧めて、顔回の如く一簞の食一瓢の飲に満足して決して富まうといふやうな不所存を起しては相成らぬなぞと、斯の章句に於て教へられたのでは無い。顔回が富の誘惑に打ち勝つて簡易生活に満足し、毫も志を曲ぐる事無く、富貴の上に超然として道を楽むのを賞められたのである。
 この章句のうちにある「一瓢の飲」とは、日本で通常考へられて居る如く瓢簟一つに入れてある酒といふ意味では無い。その頃支那では水を瓢簟の中に入れて居つたものだ。又、飯を入れる箱が是れ「簞」である。されば、顔回が一箪の食一瓢の飲で、陋巷に在つたといふのは、飯と水と丈けで不自由な生活をして居つたといふ意味で、普通大抵の人間ならばその苦みに堪へかね、直に富貴の誘惑に敗けてしまふのだが、顔回は能く其憂ひを忍び、断乎として威武にも屈せず富貴にも冒されなかつたのである。之が顔回の賢かつた処だ。
 世間の事を生半可に噛つた者は、何よりも富貴を重んじて権勢のある処金銭のある処に就くのを、処世上の最も賢き手段であるかの如くに思つてるが、実は爾うで無い。一見、初めのうちは賢さうに見えても、富貴の為に志を曲げるやうな人は、末になれば又富貴の為に如何なる曲事をも営むやうになり、遂には身を亡ぼすに至るものだ。又、斯く下劣な心懸けの人は、真に人を見る明ある達人によつて重用せらるるものでも無いのである。
 実に不思議に堪へぬのは、東京市の養育院に収容せらるる老廃者に共通の性質が、利己的なる事である。これは私のみならず、同院の実務に関係する者がみな共に実験上より感じて居つて、等しく言ふ所である。利己一点張を処世の主義とし、己れの利を謀るにのみ汲々し、一にも二にも我が富貴ばかりを心懸けて居つたら、養育院に収容せらるる如き老廃者とならずに富貴栄達を思ふままに遂げ得られさうなものだが、結果は却て其と正反対になるものである。我利々々主義の者は、如何に自分丈けは其れで通さうとしても世の中が其れでは承知せぬものだ。利己主義一点張の人に対しては、世間が什麽しても力を副へてくれぬ事になるから、自然世の中に立ち得られ無くなり、その極養育院に収容せらるるやうな事にもなるのである。

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デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.166-170
底本の記事タイトル:二三七 竜門雑誌 第三四九号 大正六年六月 : 実験論語処世談(二五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第349号(竜門社, 1917.06)
初出誌:『実業之世界』第14巻第8号(実業之世界社, 1917.04.15)