デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一

2. 二十二歳で銀行支配人

にじゅうにさいでぎんこうしはいにん

(25)-2

 この大亦興治といふ青年は素と紀州の生れであつたが、明治二十年頃、私が未だ深川の邸宅に住つてた時分に、同人の母が私の邸の召使になつて住み込んでた関係から、便宜上私の許へ寄寓して厄介になつて居つたものだ。恰度その時分大亦は十六歳であつたやうに記憶するが、全く私も驚かされるほどの機敏で、その頭脳の明晰敏達なるには感嘆の外なく、昔から一を聞いて十を知るといふ語があるが、これは大亦の如き男を指して云つたものであらうと私には思はれ、僅に十六歳の少年を以てして能くもかほど機敏に頭脳の働けるものだと、私は驚くより外は無かつたのである。
 それでありながら、別に何処の学校で勉強したといふのでも無い、ただ生れついて読書が好きであつたものと見え、間がな隙がな手当り次第に読書し、殊に新聞を精読したものだ。読んで居る新聞のうちに何か解らぬ不審の点がありでもすれば、それを直ぐ私に質問するを例として居つたが、その質問が又何時でも要領を得て居つたもので、普通の少年には到底理解し得られぬやうな難解な問題でも、私が説明してやりさへすればそれが直ぐ大亦には理解ができたものである。私は甚く感心して、大亦の話を一日、当時第二十銀行の頭取であつた西園寺公成氏に話すと、氏も甚く感心し、「そんな青年なら是非自分が欲しい。使用つてみるから……」と申されるので、私より西園寺氏の許へ遣す事になつたのであるが、西園寺氏も亦随分よく思ひ切つて重用したもので、一躍大亦を二十銀行の支配人に任命したのである。その時大亦は二十二歳であつたので、私も西園寺氏の斯の思ひ切つた抜擢には少し驚かされた。稍々不安の念が無いでは無かつたが、流石に一を聞いて十を知る大亦だけあつて、僅に二十二歳でありながら能く銀行支配人の重任に堪へ得たのみか、然も之を立派に成し遂げ得たのである。
 兎角、才智が優れた機敏に立ち廻る者は横径に這入り易く、狡猾くなつたり悪い事をしたりする傾きのあるものだが、大亦は是ほど鋭敏で非凡の才能を持ちながら、毫も曲がつた処の無かつたもので、悪い事なぞは些かも致さず、小狡猾いところなぞ少しも無かつたものである。随つて信用も加はり、将来有望の実業家を以て目せられて居つたのだが、惜しい事には肺病に罹り、漸く二十四歳になつたばかりで死んでしまつたのである。私は大亦が肺病に罹つたのを聞いた時には、孔夫子が伯牛の死病に取りつかれたのを見舞はれた時と等しく、「斯の人にして斯の疾あり」の歎を発せざるを得なかつたのだ。大亦の外にもなほ死なれて惜しいと思つた人も幾干もある。

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デジタル版「実験論語処世談」(25) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.166-170
底本の記事タイトル:二三七 竜門雑誌 第三四九号 大正六年六月 : 実験論語処世談(二五) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第349号(竜門社, 1917.06)
初出誌:『実業之世界』第14巻第8号(実業之世界社, 1917.04.15)