デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一

10. 人の性情は一生変らぬ

ひとのせいじょうはいっしょうかわらぬ

(24)-10

 人の持つて生れた性情は容易な事で変るもので無い。俗に「雀子踊り百まで」といふが、人の性情は生れた時に持つて来た傾向で一貫せらるるものだ。然し人の性は素と善で、ただ途中から之に悪が這入り込んで来る為に悪人にもなつてしまふのだから、その途中より這入つて来た悪が抜けてしまへば又再び元の善に還元して善人となり、私が森村男爵の紹介で御遇ひした方の如く立派な牧師にも成り得られようが、この途中から這入つて来た悪が却〻全く抜け切らぬものなので、一旦悪人になつてしまつたものが全くの善人になるのは決して容易な事で無いのである。これが、この牧師さんに対しても、棺の蓋を覆うてからで無いと真のところは何とも言へぬと私が考へる所以である。
 人の一寸した性癖なぞも、持つて生れたものだとなると容易に矯正し得られぬもので、若い時に凝り性であつた人は老年になつても猶且凝り性、若い時に悠長した性分の人は年重つても依然悠長したところがあり、若くつて粗忽かしかつた人は猶且老人になつても粗忽かしい処のあるものだ。何うしても一生変らぬものである。私は壮年の頃頗る物事に対して急激な質で、一つの事を何でも貫徹しようとする気のあつたものだ。
 七十八歳にもなつた今日では、全く私の性質が一変して急激に事を徹さうとする気なぞは全く喪せてしまつたかの如くに見えるが、実は爾うで無い。若い時の性分が依然として今でもある。私は昔ながらの渋沢栄一である。ただ年を重つて居る丈けに、社会の幾変遷に遭遇し種々の事情にも接して居るので、事を遂げんとするに当つても周囲の状況を稽へ、この場合如何に所志を遂げようとしてあせつても、遂げ得らるるもので無いと思へば、時期の到来するまで待つことにするので、如何にも急激の性情が私に無いやうに世間から見られる丈けのことだ。然し、思つた事を是非とも貫徹しようとする気のあるに至つては、昔も今も変らぬのである。斯く自分一身に就て稽へてみても、人の持つて生れた性情は死ぬまで変るもので無く、或る一定の傾向によつて人の一生は一貫せらるるものであると私は思ふのである。
 境遇や教育は能く人の性情を一変させ得るものだといふが、それは人の性情のうちでも皮層に属する部分だけの事で、根本から一変させるわけにゆくもので無い。天賦の性情は死ぬまで其人に附いて廻るものだ。境遇や教育によつて変へてゆける部分は、性情のうちでも境遇や教育によつて出来た後天的の部分だけである。先天的の部分は、雀子が百まで踊りを廃めぬやうに、永遠まで経つても到底変るもので無いやうに私の目には見えるのである。その信ずる宗教に変動を来したり、その業務に異動を生じたりしても、狭量であつた人は猶且狭量、無慈悲の傾向を持つてた人は猶且無慈悲なものである。ただその天賦の性情即ちその人にある先天的の傾向が、その人の宗教、教育、業務等の変化によつて、外部に顕れる時の形式を異にするやうになるまでの事である。
 是に至つて考へると、学者の説く遺伝なるものが、決して侮れぬものであるといふ事になる。親の長所欠点は什麽しても子に遺伝し、之が子の先天的性情となつて顕はれて来るものだ。この点は人の親たるものが大に心得置かねばならぬ事である。

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キーワード
, 性情, 一生, 変らぬ
デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.157-164
底本の記事タイトル:二三五 竜門雑誌 第三四八号 大正六年五月 : 実験論語処世談(二四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第348号(竜門社, 1917.05)
初出誌:『実業之世界』第14巻第6,7号(実業之世界社, 1917.03.15,04.01)