7. 四人の勇士と争ふ
よにんのゆうしとあらそう
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それでは私の役目の上に面目が立たぬやうになるからとて、私は断然この申出でを却けたのである。苟も武士に対して何の沙汰も致さずに之を縛するといふ法は無い。護衛の面々が役目の上の面目が立たぬやうになつては困るといふのなら、私とても役目の上の面目が立たぬやうでは猶且御同様に困るでは無いかと飽くまで私は主張したので、四人のうちの土方歳三といふ人が事理の理解つた人であつた為、私の主張を理ありとし、この場合、渋沢のいふ通りにするが可からうとの事になり、そんなら門前より見え隠れに護衛をするやうにさしてくれとの事ゆゑ、之までも拒むには及ぶまいとその如くに致させ、私のみ単身門内に入つて名刺を出し、奉行よりの用務で罷出でたるもの、何卒御面会を得たいと申入れると、大沢は何気なく出て来られたので、私は厳粛なる態度で「奉行に於て御取調べの廉あるに付、即刻奉行所まで出頭せられよ」と申渡し、終つて門前に待たせ置いた四人の者を召び入れて大沢を之に引渡し、警衛の上奉行所へ同道することにしたのであるが、この時の私の所置が頗る当を得て居つたので、畢竟胆が据つて居るからだとか何んとかと持て囃された為、平岡準蔵氏は私が静岡へ参つた時にこの当時の事を記憶し居られて、渋沢ならば胆もある男ゆゑ大に用うべきであるとて、私を同氏より静岡藩の勘定組頭に推薦したものであつたのだが、なほ今一つ同氏が私を推薦するに就ての最近の原因になつたものがある。
- デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.157-164
底本の記事タイトル:二三五 竜門雑誌 第三四八号 大正六年五月 : 実験論語処世談(二四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第348号(竜門社, 1917.05)
初出誌:『実業之世界』第14巻第6,7号(実業之世界社, 1917.03.15,04.01)