デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一

5. 平岡準蔵氏の事

ひらおかじゅんぞうしのこと

(24)-5

 私が今日まで接した人のうちで、この人こそ真に怒を遷さぬ人だと思つたのは、平岡準蔵と申して、維新後静岡藩の勘定奉行を勤めて居つた方である。平岡氏は如何なる事があつても怒を遷さぬどころか、一寸余所から観たところでは、全く怒を知らぬ人と謂つても可いぐらゐのものであつた。私はあれほどの人であるから、維新後になつても立派に出世されるものと思うてたのだが、維新後の発達が存外思はしからず、明治になつてから不遇のうちに歿してしまはれたのである。息子さんが二人あつて、当今至極細く暮して居られるが、私の宅へは始終出入せられる。平岡氏は格別優れた智恵のあつた仁だといふでも無かつたので、思はしい出世ができなかつたのだらう。斯んなことを考へると、前条にも一寸申したやうに、人に取つて何よりも大事なものは智恵であるかの如くに思へぬでも無い。
 この平岡準蔵氏は能く私を知つて下されて私の為に又いろ〳〵と謀つてくれもした人である。私が仏蘭西から帰朝致した際に直ぐ静岡に参つたのは同地に慶喜公が居られるので、慶喜公の御側で何かして見たいといふ気があつたからだ。処が、突然私を静岡藩の勘定組頭に任ずるとの命が下つた。之に対し私は非常の不満で大に腹を立てた次第は、既に申述べて置いたうちにもある通りだが、段々訊いてみると、平岡氏が渋沢ならば適任だらうといふので推薦した結果である事が知れた。当時、平岡氏は静岡藩の勘定奉行をして居つたが、慶喜公が将軍になられるまでは、平岡越中守と称して幕府の勘定奉行を勤めて居られたのである。
 慶喜公が徳川十五代の将軍とならせられた際には、御附人と称し、一橋家の人で慶喜公に随従し幕府に這入つた者が大分あつた。原市之進、梅沢孫太郎なども、その際に一橋家から幕府へ移つたのである。当時人材は多く陸軍奉行の管下に網羅されたので、平岡準蔵氏も亦陸軍奉行に出仕し、歩兵頭に任ぜられたのである。その頃、陸軍奉行の管轄は歩兵とか砲兵とかと夫々の部門に別れ、各部に頭を置かれたのだが、各部の頭は単に大綱を握つてる丈けで、細かい事務は各頭の下に俗事掛といふ役があつて之を取扱つたものである。申さば当時の俗事掛は今日の秘書官の如き役で、この俗事掛が「申し出」と称せられた。昨今ならば伝票の如きものを作製して勘定奉行に提出し、之によつて金銭を受け取つたりなぞしたものである。

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平岡準蔵,
デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.157-164
底本の記事タイトル:二三五 竜門雑誌 第三四八号 大正六年五月 : 実験論語処世談(二四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第348号(竜門社, 1917.05)
初出誌:『実業之世界』第14巻第6,7号(実業之世界社, 1917.03.15,04.01)